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月と陽のあいだに 139

青嵐せいらんの章

ユイルハイ城下(2)

 キサと呼ばれた女は、白玲に残り物の饅頭を一つ手渡した。
「腹が減っては仕事ができないだろう。急いで食べたら、裏庭の掃除をおし」
そう言うと、掃除道具のある場所とやり方を教えた。饅頭を飲み込むように食べると、白玲は井戸で水を一杯飲んで早速仕事に取りかかった。
 掃除が終わると、市場から運ばれてきた野菜を洗い、桶いっぱいの芋の皮むきをする。店が開くと、下げられた食器を洗い、残飯や料理クズを勝手口の脇の桶に捨てるのも仕事だった。お昼過ぎの軽食と夜の賄いの時間に、土間の隅に腰を下ろして休んだだけで、一日中くるくると働いた。

 店が閉まって片付けが終わると、女将がキサと白玲を呼んだ。
「一日目としちゃあ上出来だ。お前は口がきけないから表の給仕はできないが、手際はいいようだから、裏方仕事をおし。しばらくはキサについて、仕事を覚えるといい」
 白玲は女将に深々と頭を下げた。今日はもうお上がりと、女将が奥へ引き揚げると、白玲はキサにも丁寧に頭を下げた。

「あんたの名前を聞いていないが、口がきけないんじゃわからないね」
困ったように笑うキサに、白玲は桶の水で指を濡らすと、土間に『サエ』と字を書いた。字が書けるのかいと目を丸くするキサに、白玲は困ったように眉を下げた。
「まあいいさ。名前がわかっただけでも、気が楽になる。あたしは、キサ。裏方のまとめ役ってところだね。部屋へ案内するから、荷物を置いたら湯へ行こう」
 キサは裏庭を抜けて、白玲を使用人の住まいになっている離れへ連れて行った。

 仕事が終わると、使用人たちは連れ立って近くの湯屋へ行く。キサに連れられて、湯屋へ入った白玲は、服を脱ぐのをためらった。
「どうしたんだい?」
そう尋ねたキサは、白玲の背中を見て息をのんだ。白い背中には、いく筋も赤い傷跡が浮き出ていた。
 こっちへおいで、と白玲を奥の洗い場へ連れていくと、キサはその背にそっと湯をかけた。
「しみるかい?」
心配そうにのぞき込む私に、白玲は小さく微笑んで首を振った。そして私の背に湯をかけて、手ぬぐいでそっとこすった。
「ありがとう。いい気持ちだけど、あたしにまで気を遣わなくていいんだよ」
キサは驚いたように振り向いた。
「うちの店は、女将さんも仲間も、みんな気持ちのいい人たちだから、安心して働くといい。わからないことは、なんでも聞いておくれ」
 そう言うと、キサは早く帰ろうと笑った。

 白玲の背中の傷のことは、他の使用人にもすぐに知れた。しかし、取り立てて何か言われることもなく、白玲は仲間の一人として受け入れられた。店はいつも忙しかったから、他人のことをかまっている暇はなかった。それにに、白玲は教えられた仕事をすぐに覚えたので、口がきけなくても皆から可愛がられた。
 この店は、構えは大きいが庶民相手の料理屋で、貴族や宮廷の高官は滅多にやって来なかったから、白玲を見知った人と出くわす心配もなかった。

 店に来てひと月。息を詰めるようにして過ごした宮の暮らしは、日に日に遠くなった。白玲はようやく先のことを考えられるようになった。このまま宮へ帰らないなら、
市井で身を立てていく方法を考えなくてはならない。余計な話をして、周りの人々を巻き込みたくない。そのために、口がきけないふりをしているが、それもいつまでも続けることはできない。ここにいたら、官吏になる夢は叶わないけれど、他にも人の役に立つ仕事はあるだろう。白玲は、働きながら機会を待とうと心に決めた。


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 今年もあと1時間ほどで終わります。
何だか忙しく、気づいたら「もうお正月」って。
来年は、なるべく休まないで白玲をお届けしたいと思います。
お付き合いいただきありがとうございます。
新しい年も、よろしくご贔屓に!

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