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月と陽のあいだに 151

流転の章

帰還(1)

「今日は大切なお客人があるから、私が帰るまで待っていて欲しい」
 御霊祭りの数日後、白玲はヤズドからそう告げられた。承知いたしましたと返事をして、ヤズドの仕事部屋を整え、茶菓の支度をして待っていた。しかし夕方、店方の仕事が終わって使用人たちが帰ってしまっても、ヤズドはなかなか戻ってこなかった。
 あたりがすっかり暗くなった頃、「どうぞこちらへ」というヤズドの声がして、部屋の扉が開いた。
「おかえりなさいませ」
 顔を挙げた白玲は、思わず息を呑んだ。上等な衣に身を包んだ長身の男が、白玲を見下ろしていた。目が合った瞬間、白玲は男の横をすり抜けて部屋を出ようとした。

「待ちなさい、白玲。なぜそなたがここにいる?」
 男が伸ばした手が、白玲の腕を捉えた。
「こら、逃げるな」
 つかまれた腕を振り解こうとして、白玲はもがいた。しかし男は、白玲を引き寄せると、自分の腕の中に閉じ込めた。驚いて二人を見つめていたヤズドが、我に返って男の腕から白玲を引き戻した。
「ネイサン閣下、この娘は私の秘書のサエと申します。人違いではございませんか?」
「人違いではない」
ヤズドの言葉に、ネイサンは即答した。
「この娘は、私の縁者だ。去年の秋に家を出たきり行方がわからず、ずっと探していたのだよ」
本当なのかと問いかけるヤズドに、白玲は答えられなかった。
「ヤズド殿。すまないが、少しの間この子と二人で話をしたい。もとより乱暴するつもりはない。そなたも、逃げずに聞きなさい」
 大切なお客の頼みに嫌とは言えず、ヤズドは白玲を残して部屋を出た。

 ネイサンは、白玲を長椅子に座らせた。
「まさかこんなところで、そなたを見つけられるとは思わなかった。元気でいたのだね」
 そして確かめるように、もう一度白玲をじっと見つめた。
「そなたがいなくなって、皆とても心配している。私と一緒に、ユイルハイへ帰ろう」
白玲は首を振った。
「宮へ帰ったら、お祖母様に殺されるかもしれません。殺されなくても、無理やり結婚させられてしまいます。私は鞭打たれるためにこの国へ来たのではありません」
膝の上で握りしめた手に、ぽたりと涙が落ちた。
「お祖母様とオラフ・バンダルから逃れて、ようやく落ち着いて暮らせるようになったのです。どうか見逃してくださいませ。それが無理なら、叔父様からお祖父様に皇女の位をお返ししたい旨をお伝えいただけませんか。私は一人の領民として、この国のお役に立てるように、生きていきたいと思います」
 そう言って深くお辞儀をした白玲の肩に、ネイサンはそっと手を置いた。

「それは出来ない。そなたはお祖父様のために働きたくて、この国へ来たのだろう。国のために、日々重い責任を背負っていらっしゃるお祖父様に、これ以上ご心配をおかけして良いのかい?」
 白玲は、唇をかんで俯いた。
「そなたのことだ。どこにいても、きちんと働いて役に立っているに違いないし、それなりに幸せに暮らしているのだろう。だが、そなたが本当に力を使う場所は、ここではないだろう」
「私はまるでコウモリみたい」
白玲は顔を上げた。
「輝陽国にいた時、私は父が月族だからと仲間外れにされました。父の国へ行けばもう少し自分らしくいられるかもしれないと思ったら、今度は陽族の卑しい母を持つからと鞭で打たれました。私はどこにいても除け者でした。でも、ここでは私はみんなに必要とされて、ちゃんと自分の足で立って生きています。月蛾宮よりずっといい。それでも叔父様は、私に帰れとおっしゃるのですか?」
 そうだ、とネイサンが頷いた。
「コヘル卿がそなたに託した思いを知れば、きっとわかるはずだ。もっと広い世界を見なさい。宮へ帰って皇女の地位を使うのだ。アイハルの願いをかなえる力が、そなたにはあるのだよ。そなたが皇后府へ戻らなくてもいいように、私からお祖父様にお願いしよう。そなたは病気療養中ということになっている。そなたを守る手立てはあるのだよ」
 ネイサンの言葉に嘘はないと思ったが、それでも白玲は帰ると言えなかった。

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