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月と陽のあいだに 156

流転の章

カシャン(3)

 白玲がカシャンへ発った後、皇后は月神殿の大巫女の座を退き、シノンが跡を継いだ。若すぎると心配する声もあったが、シノンは堂々と大巫女の大役をこなした。そして新しく任命された大神官のもとで、月の神事の準備が始まった。
 白玲の一件で事実上の謹慎処分を受けた皇后は、かつての勢いを失い、公務に戻ってからも皇后府を訪れる人はまばらになった。そして、皇帝が白玲をどのように処遇するか静観していた有力貴族たちは、白玲の縁談を皇帝が破談にしたことを知ると、こぞって一族の若者を白玲の婿候補にあげ始めた。こうして送られてきた身上書が、今では皇帝の執務室の一角に小さな山を作るほどになった。

 月の神事の日、白玲はカシャンの館から満月を眺めていた。新しい大神官と大巫女を迎えた月神殿では、例年にもまして盛大な儀式が行われているに違いない。しかし白玲は参列を許されなかった。後見役のネイサンからそのことを伝えられたとき、白玲は落胆しなかった。今ユイルハイに戻っても、人々の好奇の目に晒されるだけだ。それにネイサンから渡された『お土産』を見てから、月の神事のことは、白玲の心の外に追いやられた。

 それは、鍵のかかった木箱だった。箱の中には、丁寧に重ねられたコヘルの日記と手紙が入っていた。手紙はタミアからのものだった。
 その手紙を読んだ時、白玲は抱えた木箱が何十倍も重くなったような気がした。
ーーもっと早くこの日記の存在を伝えたかったが、皇后の妨害を恐れて保留にしていたこと。白玲には、まずコヘルが月蛾国へ来たばかりの頃の日記を読んでほしいこと。質問があれば、タミアかネイサンに遠慮なく伝えること。そして、コヘルが白玲をどれほど大切に思っていたかを知ってほしい……。
 エレヤ夫人が月神殿の儀式に出かける間だけ自由時間をもらって、白玲はコヘルの日記を読み始めた。

 日記は、月蛾宮に囚われた楊静が、大神官の命令で月帝に仕えることを決意した直後から始まっていた。まだ三十歳にもならない楊静は、家族と引き裂かれて異郷で生きることを余儀なくされた。淡々と綴られた日々の出来事の背後には、楊静の怒りと悲しみが溢れていた。
 貴州府からの報告で、妻が毒をあおぎ幼い娘が行方知れずになったことを知った日、頁にはただその事実だけが記されていた。けれどもその余白から聞こえてくる慟哭に、白玲は胸が苦しくなった。
 とても一気に読めるようなものではなかった。
 朝起きて身支度と食事を済ませると、白玲は日記を手に広い庭園を歩き回った。そして大きな楓の木の下や、生垣に囲まれた東屋や、池のほとりの草原に座って、少しずつ読み進めた。
 陽族の楊静が、どのようにして月蛾国のコヘルになっていったのか。何を見て何を考え、置かれた状況をどう受け入れていったかは、白玲にとって他人事ではなかった。日記を読んで楊静の経験をなぞることは、白玲自身がこの先どのようにこの国で生きていくかを考える手がかりになった。

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