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月と陽のあいだに 127

青嵐せいらんの章

惜別(2)

 コヘルの手を離した白玲は、祖父の枕元で声もなく泣き続けているアルシーの背を撫でた。白玲は月蛾げつが国へ来る直前に婆様を亡くした。アルシーの気持ちが、痛いほどわかる。だから、あの時白敏はくびん白鈴はくりんがしてくれたように、涙を流しながら黙ってアルシーのそばに寄り添った。そしてアルシーの涙が枯れる頃、温かい花茶をそっと差し出した。アルシーがしゃくり上げながら花茶を飲むと、微かな花の香りが鼻の奥にすんと沁みた。

 月神殿の聖殿で行われたコヘルの葬儀には、皇帝自ら列席してその死をいたんだ。陽族でありながら月帝に仕え、月蛾国を豊かな国にするために全力を捧げた数奇な生涯だった。その志は次の世代に引き継がれ、彼らは今の月蛾国を支える柱になっている。
 コヘルの棺を担いだのは、愛弟子である官房長のタミア、皇帝の第二皇子のカナルハイ、皇帝の弟であるネイサン公爵など、宮廷の重臣たちだった。白玲は、アルシーに寄り添うように手を繋いで、一緒に棺の後を歩いた。ひとりぼっちになってしまったアルシーに、それでも一人じゃないよと伝えたかった。

 コヘルはユイルハイ郊外の丘にある英雄墓地に埋葬された。
 葬儀の後片付けは、アルシーの後見人であるタミアとサジェが力を貸した。コヘルは金銭的な豊かさには興味を示さなかった一方、知の巨人として、たくさんの蔵書を抱えていた。それらは月神殿の図書館に寄贈され、コヘル自身があらわした論文や随筆などは、時間をかけて本にまとめられることも決まった。
 そんな折、アルシーがタミアに衣装箱ほどの大きさの鍵のかかった木箱を見せた。
「お祖父様が亡くなる少し前に、私に託されたものです。まずタミア様にお見せするように言われました。中にタミア様宛のお手紙があると思いますが、これは公にせず、お祖父様が指定された方々にだけみていただきたいとのことでした」

 タミアは、アルシーから鍵を受け取ると、木箱を開けた。
 中には、コヘルの手でつづられた日記がびっしりと重ねられていた。
 コヘルが月蛾国にとらわれて間もない時期から、輝陽きよう国への最後の旅から帰って床についた頃までの、四十年余りの日々の出来事が、丹念な字で綴られていた。私的な日記というより、この時代の政治がどのように行われていたかを、後世の人々に伝えるために書き残された覚書だというべきだろう。
 為政者いせいしゃならば、その時々に最善を求めて全力で施策を練るべきだ。しかし、それがいつも本当に良い結果をもたらすとは限らない。全ての評価は、後世の人々の手にゆだねられる。コヘルはそのための資料を残してくれたのだ。非難された時、責任を回避するために、政策決定の過程を曖昧あいまいにしたり、記録を残さないことなど珍しくもないのに、なんという潔さだろう。コヘルの手紙を読みながら、タミアは震えた。今さらながら、亡き師の偉大さが身に沁みた。手紙には、覚書を読んでほしい人たちの名前が記されていた。タミアの他には、教え子だったカナルハイとネイサン、次の月蛾国の主人となる皇太子、そして最後に記されていたのは、白玲だった。アイハルの消息を尋ねる中で見出した彼女を、コヘルは次の次の世代を担う者と見定めて、この国へ連れてきたのだ。自分はコヘルから、白玲を育てる役目を託されたのだ。タミアの脳裏に、白玲の大きな黒い瞳と、紙上読書会の教え子たちの顔が浮かんだ。

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