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月と陽のあいだに 168

波濤の章

湖州(1)

 白玲がカナンの街に足を踏み入れた頃、輝陽国では水面下で攻防が続いていた。

 暁光山宮から派遣された巡察使が湖州に入り、二十年ほど前まで遡って、暗紫関の通過記録と南湖鎮の港の記録を調べ始めたのだった。
 南湖太守は突然の査察に異議を申し立て、その意図を明らかにするように迫った。しかし巡察使は「陽帝陛下の勅命で仔細は言えぬ」の一点張りだった。これに対して南湖太守は、表立って反発はしなかったものの、記録の保管状態が悪いとか、関守が代替わりして詳細はわからないとか、さまざまな理由をつけて調査を妨害した。
 しかし、こうした妨害は織り込み済みだったので、南湖太守の注意が巡察使に向いている間に、陽帝は多数の密偵を湖州に送り込んだ。彼らは軍備や食糧の備蓄などを探り、湖州に隣接する貴州や漠州に派兵した場合の問題点を調べ上げた。

 大神殿も動いていた。
 陽神殿の神官は、平時から民の実情を大神殿に伝える役目を負っている。その情報は暁光山宮にも伝えられたから、南湖太守は湖州から神官を追放しようとした。しかし神官は民の信望が厚く、その暮らしに深く関わっている。彼らを追放すれば、民の不安を煽ることになりかねない。そこで南湖太守は神官に監視をつけ、少しでも怪しい動きをすれば命はないと脅迫した。
 南湖太守の脅しに対して、湖州陽神殿の筆頭巫女は一歩も引かなかった。優れた知力と胆力をもつ筆頭巫女は神官たちを激励し、春分の祭事にかこつけて、末社にさまざまな物資を送り備蓄させた。そしてこれらを神の代理である陽帝からの下賜品として民に分け与えることで、人々の心をつかんだ。
 こうして大神殿は、南湖太守の謀反に備え、暁光山宮を側面から支える体制を作ったのだった。

 ここへ至る道筋をつけたのは、陽淵とその側近たちだった。

 白玲が月蛾国へ渡った時、陽帝は激怒した。
「はざまの子を保護して、貴州府陽神殿の幹部候補にまで育てたのに、その恩を仇で返された。わが国の情報が漏れる前に、白玲を殺せ」
 暗殺命令を下そうとする陽帝を、陽淵は止めた。
「白玲を、南湖太守討伐の口実に使おう」
 陽帝はぴくりと眉を上げた。
「わが国では、白玲はあくまで大神殿の巫女だ。皇帝と大巫女の許しを得ずに出奔したのだから、罪人として引き渡せと喧嘩を売ろうではないか」
 無言で見つめる陽帝に、陽淵は続けた。
「それでも白玲を返せぬというなら、月帝は白玲が何者なのかを説明するほかあるまい。そうすれば、当然十九年前のアイハル皇子謀殺が表沙汰になるだろう」
「だがそんな昔のことを蒸し返したところで、今さらだ。話はそこで終わるだろう?」
 陽帝は眉間にシワを寄せた。
「私が月帝なら白玲は返さないが、アイハルの件については強硬に抗議するね。十九年前は冷害に対処するために、真相究明を諦めた。しかし機会があれば息子の死の経緯を明らかにして、名誉を回復したいと思うのは親心だろう。もう一度事件を調べ直せと言ってくるなら、我らが南湖太守の謀反を調べ上げる口実になるではないか」
 それに、と陽淵は続けた。
「白玲を生かしておいて損はない。刺客の代わりに密使を送ろう。こちらへ寝返るとは思わんが、輝陽国で受けた恩を忘れるなと、釘を刺しておくのだ。
 月帝の直系の皇族は少ない。その一人である白玲を、我が国の足掛かりに使えれば、先々きっと役に立つだろう」
 陽帝は目を上げると、その方向で策を詰めろと命じた。陽淵は頷いて書斎を後にした。

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