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月と陽のあいだに 129

青嵐せいらんの章

惜別(4)

 御霊みたま祭りの休みも半ばを過ぎた昼下がり、内廷ないていの回廊にそうの音が響いていた。もとはやさしい練習曲だが、変調したり拍子を変えたり自在に弾きこなす腕前は相当なものだ。回廊を歩いていた男は、筝の音に導かれるように皇后府の一角にたどり着いた。
 音の出どころの窓からそっと中をのぞいてみると、白玲が一心に筝を弾いていた。
 曲が終わって顔を上げた白玲は、人の気配に気づいて照れたように笑った。
「叔父様、いらっしゃるならお声をかけてくださいませ」
「あまり楽しそうだから、邪魔をしてはいけないと思ってね。久しぶりに良い音色を聴かせてもらったよ」

 白玲は、戸口に回ったネイサンを居間に招き入れた。
「叔父様が内廷にいらっしゃるなんて、お珍しいのではありませんか?」
 冷たい花茶をすすめて、白玲がたずねた。
「陛下に拝謁はいえつした帰りだよ。皆は御霊祭りで休んでいても、陛下は国政のことを考えていらっしゃるからね」
 額に汗を浮かべたネイサンを、白玲がねぎらった。
「そなたの筝の音色で元気になったよ。ところで、今日はアルシーはいないのかい?」
「コヘル様のお墓参りで、お休みです」
白玲が答えると、そうだったね、とネイサンはわずかに目を伏せた。

 やがて思い出したように、ネイサンが言った。
「陛下は音楽がお好きで、笛の名手でいらっしゃる。私も時々お相手をするのだが、今度はそなたが伴奏すれば良い。きっとお喜びになるだろう」
「私は勝手気ままに弾いているだけです。陛下のお相手など、とても務まりません。
 それより今は叔父様の筝をお聴きしたいです。せっかくですから、一曲お願いできますか?」
 では花茶のお礼に…と言って、ネイサンは短い曲を弾いてくれた。勇壮な曲を弾くのかと思っていたら、母の子守唄のような静かな優しい旋律の小曲だった。
 弾き終えて立ち上がると、ネイサンが笑った。
「今度、そなたと一緒に弾いてみたい。たまには私の邸にもいらっしゃい。一緒に稽古をしよう」
 白玲が嬉しそうに頷くと、ネイサンは改めて花茶の礼を言い、回廊の向こうへ去っていった。

 数日後、白玲のもとに一台の見事な筝が届いた。
『先日は楽しい時間をありがとう。弾き手の技量に見合わぬ楽器が気になっていた。私の手元にある筝の中で、一番そなたに合いそうな音色のものを選んだから、遠慮なく使ってほしい。合奏の約束も忘れずに』
 添え書きを見た白玲は、小躍こおどりした。今使っている筝は宮廷楽寮のお下がりで、響きが少し弱かった。ネイサンから贈られた筝は、胴の蒔絵まきえも美しく、早速試し弾きしてみると、華やかな音色が響き渡って、二割り増し腕が上がったような気がした。弾む心のままに奏でると、筝も応えて明るい響きが広がっていく。こんなにワクワクするのは久しぶりだった。

「今日の筝の音は、いつにも増してご機嫌ね」
 侍女を伴った皇后が、独り笑いをこらえていた白玲に声をかけた。そして届いたばかりの筝を見ると、眉間みけんかすかなしわを寄せた。
「見事な筝だけれど、どなたからの贈り物?」
「つい先ほど、ネイサン公爵様が届けてくださいました」
 皇后の問いに、白玲は素直に答えた。
「ネイサン卿は当代一の筝の名手で、名器をいくつもお持ちだと聞いています。これもそなたの腕前を見込んでの贈り物だと思うけれど、今のそなたには過ぎた品です。お返しなさい」
 そう言うと、皇后は白玲の返事も聞かずに立ち去った。

 皇后の後ろ姿を見送る白玲の目から、大粒の涙がこぼれた。やがて涙を拭うと、白玲は愛おしそうに筝の胴を撫でた。そして筝を丁寧に包み直し、お詫びの手紙を添えて、使いの者にネイサン邸へ届けさせた。
『素晴らしい筝をお送りいただき、ありがとうございます。包みを開いた時どんなに嬉しかったか、とても文字では表せません。けれども、この筝は私には過ぎたお品です。頂戴することはできません。このようにお返しする無礼をお許しくださいませ。いつか叔父様とご一緒に演奏できるように、今は自分の筝で練習いたします。お心遣いに改めてお礼申し上げます』
 送り返された筝の添え書きを見たネイサンの脳裏に、御霊祭りの日の白玲の笑顔が浮かんだ。筝を返すように、皇后に言われたのだろう。迂闊うかつだった。
『筝は確かに受け取ったよ。私のことは気にしなくて良い。そなたの喜ぶ顔を見たかっただけなのだが、かえって可哀想なことをしてしまったね。この筝はそなたのものだ。そなたの手元に置ける日が来るまで、私の邸で預かっておこう。気が向いたら、いつでも弾きに来ると良い。たまには一緒に稽古をしよう』
 白玲はネイサンの手紙を繰り返し読んだ。そして読み終わると、手文庫の一番底に、婆様の日記と一緒に大切にしまった。

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