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月と陽のあいだに 155

流転の章

カシャン(2)

「皇家にふさわしい器を作りましょう」
そう言って始まったエレヤ夫人の指導は、思いのほか厳しかった。白玲は貴州府陽神殿で十歳の時から行儀作法を仕込まれた。だから普通の娘に比べても、美しい立ち居振る舞いができた。しかしエレヤ夫人の要求は、それでは足りないほど高かった。白玲と同年代の侯爵家の二人の姫が、交代で手本を見せてくれるのだが、頭でわかっても、なかなか同じようにはできなかった。

「皇帝であろうと農民であろうと、人間として違いはないでしょう。けれども世の中には秩序がございます。支配するものとされるものがあり、その境が曖昧になれば、この国の秩序は保たれません。
 殿下は市井の人々とも交流がおありで、同じ仲間として接することが当然のようにお思いかもしれませんが、皇女になられた以上、そのお考えはお捨てください。殿下は支配する側に立っておいでなのです。人々から、上に立たれるのが当然だと思われるような、威厳のある振る舞いをなさらなければいけません。
 まずは御位にふさわしい器を作り上げ、中身は時間をかけてじっくりと研鑽を積まれればよろしいのです」
 エレヤ夫人の『支配する側』という言い方には反発も覚えたが、白玲が皇帝のために働くということは、そういうことなのだ。
「皇女である限り、私心を優先することはできません」
エレヤ夫人の口調は静かだが、白玲の心に重く響いた。
「今回、陛下がオラフ殿との縁談を破談になさったのは、オラフ殿が陛下のお目がねに適わなかったからで、殿下のお気持ちを思ってのことではありません。もしオラフ殿が皇女の婿にふさわしいとお考えになられていたら、殿下がお好きかどうかは関係なく、縁談を進めていらしたことでしょう。
 陛下は芯はお優しい方ですが、月蛾国のためであれば冷酷になることを厭わない方です。殿下は、そのことを肝に銘じてくださいませ」
 エレヤ夫人の教えを受けて、白玲は自分のしたことがどういう意味を持っていたか、初めてわかった気がした。命の危険を感じたからといって、皇女の義務を放棄して逃げ出したことがどれほど重大なことだったか、今更ながら身に沁みた。たった三か月の謹慎で許されたのは、特例中の特例だったのだ。今回だけは許す、という皇帝の声が聞こえてくるようだった。

 カシャンでの暮らしは、皇后府にいた時より息が詰まるものだった。自室で過ごすわずかな時間だけ、白玲はほっと息をつくことができた。
「そのうち慣れるだろう。皇家の暮らしとは、そういうものだよ」
後見役のネイサンは、窒息しそうな顔をしている白玲を慰めた。そして時間を見つけては、白玲を散歩に連れ出したり、筝の手ほどきをしてくれた。
 五日ほどの滞在を終えて、ネイサンがユイルハイに帰る日、見送りに出た白玲は、思わず涙を流してしまった。
「そんなに心細そうな顔をするんじゃない。伯母上の教えは、みなそなたの将来のためなのだから。来月ここへ来る時には、お土産を持ってきてあげよう。それまでには、きっと今より楽に息ができるようになっているよ」
 うつむいた白玲の頭をポンとたたくと、ネイサンは北へ向かって出発した。

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