月と陽のあいだに 162
流転の章
オラフ(1)
ユイルハイから南へ向かうと宿場がある。街道はここでナーリハイ領とカシャン領へ分岐する。そのため宿場は、行き交う人々でいつも賑わっていた。街なかには数件の商店と宿屋の他に、馬で旅する人のための宿駅もあった。宿駅を預かる親方のもとでは、数人の若者が馬の世話をしていた。
オラフがここで働き始めたのは、今年の春。アラムの花の盛りだった。
ある日ふらりとやってきて、働かせて欲しいと言った。そういう若者は時々いたが、たいてい長続きしない。しかし、馬の世話係はいつも足りなかったから、親方はわずかな間でも構わないと雇うことにした。口数が少なく、いつも他人の影にいるような男だが、馬の世話は手慣れていて、人より先に馬と仲良くなった。
ひと月ふた月過ぎるうちに、ようやく話した身の上は、バンダル領の生まれで、両親を病で亡くして故郷を離れ、兄弟も親しい身内もいない天涯孤独だということだった。馬の世話の仕方は、故郷で学んだ。旅の途中に立ち寄ったこの宿駅で馬を見ているうちに、もう一度馬と関わる仕事がしたくなったと言った。
言葉の端にわずかにバンダル訛りがあって、貴族の家に奉公していたのか身のこなしは洗練されていた。若い娘を見ても悪い冗談ひとつ言わず、浮いたところもないので、言い寄る娘をがっかりさせた。
気づいたものは少なかったが、オラフは馬の世話をしながらも、ユイルハイからやってくる旅人の話に聞き耳を立てていた。宮廷の様子に特に興味を持っているようだった。黒髪の皇女が長い療養から戻ったと聞いた時には、もっと他のことを知らないかと、話をしていた旅人に食い下がっていた。
それからしばらくして、旅商人の男が、オラフを見て目を細めた。
「お前さん、オラフさんじゃないか?」
オラフは怪訝そうな顔で男を見つめていたが、やがてサージさんと名を呼んだ。途端に男は破顔一笑して、久しぶりだねとオラフの肩を叩いた。
「あんた、急にいなくなるから、旦那が心配していなさるぜ。姿をくらますのは構わねえが、おいらには一言いっときなよ」
オラフを木陰に引き込んだ男は、急にぞんざいな口調に変わった。
「城下の料理屋で殿下を見つけたけれど、あと一歩のところで邪魔が入って、逃げるしかなかったんです。いろいろ力になっていただいたのに、闇の御方にどうご報告していいかわからなくて……」
男はオラフに顔を近づけてニヤリと笑うと、懐から取り出した巾着を握らせた。
「うちの旦那は、一度の失敗でご機嫌を損ねるような肝の小せえお方じゃねえよ。お前さんだって諦めちゃいねえんだろ。この銭は旦那から。次の機会までの繋ぎだ。もらっときなよ」
男はオラフの耳元で、早口でささやいた。
「二日後に黒髪の殿下がここを通る。向こう三か月、カシャン侯爵の館にご滞在だそうだ。だが、カシャンはいけねえ。館へ忍び込むのは一苦労だし、見つかったら生きて帰れねえからな」
男はオラフの手を離すと、念を押すように言った。
「ここを離れる時には、おいら宛に行き先を残しな。商人のサージへって言ってくれりゃあ、おいらが受け取る。まあ、気長にやるこった」
やがて男はもとの商人の顔に戻ると、丁寧に挨拶して去っていった。
二日後、近衛士官に守られた美しい馬車の一行が、カシャンへ向かって街道を走っていった。いつもは厩舎で馬の世話をするオラフだが、この日は街道の見える場所に馬を繋いで、馬車が通るのを待った。
馬車の窓には薄絹がかけられ、中の様子は見えなかったが、白玲が乗っていると思うと胸が疼いた。一族の笑い者にされて腹が立ったのは事実だが、本当のところ、オラフは白玲が憎いのか恋しいのか、自分でもわからなかった。
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