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月と陽のあいだに 192

波濤の章

進水式(5)

 ネイサンは、つかんだ腕を引き寄せた。
「そなたにとっては、私は父の代わりだろうか」
 うつむいた顔を覗き込まれて、白玲は目を伏せた。
「私にとってそなたは、娘ではない。大切な愛しいものなのだよ。いつからそう思うようになったのか自分でもわからないが、もう手放すことも、他人に委ねることもしたくない。だから白玲、私のところへおいで。私の妻になりなさい」
 運河を渡る風の音だけが聞こえた。
 温かい腕に包まれていた白玲は、そっと体を離すと「いいえ」と首を振った。

「私が『はざまの子』だから、叔父様は珍しいだけ。すぐに飽きてしまうでしょう。
 それに私は不器用だから、大好きになった人には自分を全部押し付けてしまうと思うの。でも押し付けられた方は、重たくて暑苦しい。それで嫌われてしまっても、私は諦めることも離れることもできないと思うのです。
 そんな惨めな思いをするくらいなら、好きにならない方がいいの。今のままなら、叔父様をお父様のように大切に思うだけですみます。甘えるのを我慢することもできます。だから、愛しいなんておっしゃらないで」
 白玲の声は掠れていた。拒む言葉は、愛が欲しいと泣きじゃくる声に聞こえた。
 欲しくてたまらないものが目の前に差し出されているのに、得る前から失うことを恐れて手を伸ばせずにいる。小さな子どものように震える肩を、ネイサンはもう一度包み込んだ。

「怖がらなくていいんだよ。そなたの心一つ、私が受け止められないと思うかい?」
 白玲はただじっとネイサンの胸に顔を埋めていた。
「明日のことはわからない。いつ失うかわからないからこそ、私は今、愛しいものを大切に抱きしめたい。そなたはどうして、嫌われることばかり恐れるのだろう。私がそなたを、もっと好きになっていくとは思えないかい?」

 白玲は腕を伸ばすと、ネイサンの首にしがみついた。
「私の背中には、みにくい傷がたくさんあります。あざになって消えないの。きっと叔父様は、気持ち悪いって嫌いになるわ」
 しゃくりあげる白玲の背を撫でながら、ネイサンは小さく笑った。
「そんなことで、嫌いになったりするものか。白玲、愛する人の背にあるのなら、痣だって愛しいのだよ」
 吹き過ぎる風に、枯れ葉が落ちる音が聞こえた。じっと温かい肩に頬をつけていた白玲は、顔をあげるとネイサンの耳元でささやいた。
「だいすき」
 大きな手が頬をつつみ、額に唇が触れた。
「私のところへおいで。何も心配はいらないから」
 白玲はこくりと頷くと、ネイサンの背に腕を回した。
 きっと母も、こうして父を抱きしめたのだ。すぐに失うかもしれないと、わかっていても。
 大切な人が遠くへ行ってしまわないように、白玲はネイサンに回した腕に力を入れた。それに応えるように、ネイサンの腕にも優しい力が込められた。

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