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月と陽のあいだに 84

浮雲の章

暗紫越え(8)

 暗紫あんし回廊かいろう月蛾げつが国側のせきはナーリハイ領にあるが、山の部族は独自の道を使って細々と交易をおこなっている。その道を行けば、ナーリハイ領の関を通らずに、月蛾国に入ることができる。しかし山の部族は他からの襲撃を恐れて、一族の者以外には滅多めったにその道を教えない。あとは交渉するしかない、ということだった。
「とにかくコヘル様が落ち着けるところへ急ぎましょう。集落に入れば、もう少し楽に休める場所もあるでしょうし、お願いして精のつく食べ物を分けていただくこともできるでしょう。私も頑張りますから、コヘル様も・・・」
 白玲はくれいの言葉をさえぎって、コヘルが苦笑した。
「それは本来、私があなた様に申し上げる言葉ですな。あと一日、老骨に鞭打って参りましょう。それでもお互い無理は禁物です。春先の山は危ない。ナダルにも苦労をかけるが、よろしく頼む」
 じっと火を見つめていたナダルが、「はい」と頷いた。三人は寝袋にもぐり込むと、明日の好天を祈りながら眠りについた。

 翌朝目覚めると、風のない曇天どんてんだった。気温はすぐに上がりそうにないが、それだけ雪崩なだれの危険も少なくなる。三人は身支度を整えて出発した。途中の雪溜まりでは、足が抜けず難儀なんぎをしたが、ゆっくりでも確実に前進して、雲の向こうの陽が西に傾く前に、山の部族の集落の入り口に着いた。

 回廊の本道からやぶの中に入ったところに、枝が何本か折れた木があり、よく見ると細い縄が枝の間を抜けて続いている。ナダルは近づいて、その綱を何度か引いた。
 白玲が興味深げに辺りを見回すと、「しばらくお待ちなさい」とコヘルがささやいた。じっとしていると、足元から冷気がい上がってくる。白玲は小さく足踏みをして、クルクルと円を描くように動いた。

 やがて森の奥から、鳥の鳴き声のような音が近づいてくると、三人のはるか先で止まった。
「何者か?」
誰何すいかする男の声が聞こえ、弓弦ゆずるを鳴らす音がした。コヘルが一歩前に出ると、男に向かって叫んだ。
「月蛾国の薬草師サクリョウと申す。この二人は旅の友。一夜の宿をお願いしたい」
弓を下ろして、一人の男が近づいてきた。男はコヘルを見ると、苦笑いを浮かべた。
「サクリョウ師、こんな時期に無理をされる。ご老体がわざわざ山越えされるとは、どんな非常時か・・・と父がいぶかしがるでしょう」
そういうと、男は三人の先に立って歩き始めた。白玲が見上げると、ナダルは黙って頷き、先に行くように道を空けた。
 男は迷うことなく、藪の中のけもの道を進んで行く。しばらく歩くと、森かげに暖かなあかりがぽつりぽつりと見えてきた。ほっとしたのか、振り返った白玲の頬に涙がこぼれた。ナダルは立ち止まると、あわててまばたきする白玲の頬を、大きな手でぬぐった。
「今まで心細かったでしょう。今夜はここで休めます」
うなずいた白玲の目から、また大粒の涙があふれた。


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