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月と陽のあいだに 152

流転の章

帰還(2)

 白玲が黙ったままじっと座っていると、思い出したようにネイサンが言った。
「待っていると言えば、トカイがそなたの手紙をずっと待っている。そなたのおかしな質問がないと、読書会が盛り上がらない。ヤンジャもカロンも真面目すぎてちっとも面白くないのだよ。あの下手字の手紙が懐かしい。もう一年も見ていない」
 まんまるな目をして、白玲がネイサンを見つめた。
「戻っておいで。私が官試の勉強を見てあげるから」
白玲の目から、大粒の涙がこぼれた。

「お待たせしてすまなかったね。入っていただいて結構だ」
わずかに開いた扉の向こうに、ネイサンが声をかけた。ヤズドはすぐに入ってきた。
「祖父殿が心配しておられるから、申し訳ないが、この子は連れて帰らなければならない。だが明日すぐにと言っても、貴殿に迷惑がかかるだろう。
 私はこれからカナンへ赴き、十日後にまたここへ戻ってくる。それまでに、片付けてもらえるだろうか」
 白玲を連れ帰ることは、すでに決定事項になっていた。
「貴殿には、この子が世話になったから、祖父殿に代わって私が礼をしたい。先日の依頼の件は引き受けよう。この子を守ってくれてありがとう」
 ヤズドは困惑した。白玲は、せっかく見つけた有能な働き手だ。急にいなくなると、本当に困る。しかしそれと引き換えに、新しい事業の資金が手に入ることになった。悲喜交々だが、白玲を引き止めることが出来ないことだけはわかった。
「承知いたしました。サエの仕事は数日中に片付け、閣下のお帰りをお待ちいたしましょう。それにしても、代わりの秘書がすぐに見つかるとは思えません。正直とても残念です」
「貴殿が雇っていたのは、この国屈指の秘書だったのだよ」
白玲は困ったように俯いた。
「何も聞かずに帰すことになってしまうが、ネイサン閣下のお身内なら、私などが事情を知らない方がいいのだろうね。しかし、君がいなくなると皆が寂しがる。下宿の老夫婦も……」
 そしてヤズドは、せめて本当の名前を教えて欲しいと言った。
「白玲と申します」
小さな声で白玲が告げた。わずかに首を傾げたヤズドは、やがて静かに微笑んだ。
「君は、とんでもない家出娘だったんだね。そして私たちには手の届かないところへ帰っていくのだね。だが、忘れないでほしい。いつか氷海航路を拓いたら、私たちの船で君を輝陽国へ連れていくよ」
 はい、きっと。そう言った白玲の目から、また一粒涙がこぼれた。

 ネイサンは月蛾宮に早馬を送った。
 白玲発見の知らせを聞いた皇帝は、サジェとアルシーをタルスイへ送った。護衛にはナダルがついた。三人はユイルハイから早船を使い、翌々日にはタルスイの岸壁に到着した。

「旦那様のお言い付けで、お迎えに上がりました。旦那様は、お嬢様のお帰りを首を長くしてお待ちでございます」
 迎えにきたサジェに、白玲は黙って深く頭を下げた。
 サジェはヤズドに向き合うと、皇帝から託された品を差し出した。
「旦那様から、ヤズド様へお礼をお伝えするよう言いつかっております。お嬢様をお守りくださり、ありがとうございました」
「知らなかったこととはいえ、お嬢様を随分とこき使ってしまいました。それなのに、このようなお品まで頂戴して、こちらこそお礼を申し上げます」
 臆することなく笑うヤズドに送られて、白玲はルーン水運を後にした。
 御霊祭りが終わってまもないと言うのに、ルーン川を渡る風は肌に冷たく、タルスイの街に早い秋の訪れを告げていた。

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