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月と陽のあいだに 126

青嵐せいらんの章

惜別(1)

 月蛾げつが国の夏は過ごしやすい。
 去年まで白玲が暮らしていた輝陽きよう国では、春が過ぎるとすぐに雨季になった。湿った南風が運ぶ雨雲は、暗紫あんし山脈にはばまれて、南側の平地にたくさんの雨を降らせる。最初は二、三日雨が続くとしばらく晴れるが、その間合まあいが次第に狭まる。暑さが本格的になるころには、雨雲の帯が輝陽国の南から北へ伸びて、毎日雨が降る。静かな雨なら良いが、南風が送り込む湿った空気は厚い雲を生み、地上のものを全て押し流すような勢いの雨が降り注ぐ。大河淮水わいすいの流域では、毎年どこかで堤防ていぼう決壊けっかいした。濁流だくりゅうは家々を押し流し、田畑を埋めて犠牲者が出た。
 やがて雨季が終わると、暑い暑い夏になる。湿度の高い輝陽国の夏は、本当に厳しかった。
 人々は朝早く起きて野良のら仕事を済ませ、太陽が中天に届く頃には、軒下や木陰で昼寝をする。太陽が傾く午後になると、再び野良に出て働くのだった。

 月蛾国の夏は避暑地ひしょちにいるようだと、白玲は思った。雨季はあるが期間は短く、洪水こうずいをもたらすような豪雨は滅多に降らない。雨季が終わると、暗紫山脈のふもとでは乾いた熱い風が吹く。湿った南風は、暗紫山脈の南で水分を使い果たし、山を越えると乾いた風になって吹き下ろすのだ。人々を困惑こんわくさせる熱風だが、その風のおかげで、山麓ではブドウや果実が豊かに実った。暗紫山麓で作られる葡萄酒は最高級品で、月蛾国だけでなく輝陽国でも珍重されて、重要な輸出品になっていた。

 雨季が始まった頃、コヘルの容体ようだいが急に悪化した。アルシーは休みをとって祖父に付き添う日が増え、白玲も頻繁ひんぱんに見舞いに行った。アルシーと交替で水を飲ませたり、扇であおいだり、身の回りのことをした。今は宮廷で活躍するかつての教え子たちも、時間を作っては見舞いにやってきた。しかしコヘルは次第に眠っている時間が長くなり、教え子たちは皆、そのせた寝顔を見つめては、静かに帰っていった。

 六月も半ばになると、アルシーはほとんどコヘルに付き切りになった。白玲が、明日はお見舞いに行こうと思っていた矢先、コヘル危篤きとくの知らせが届いた。
 白玲が駆けつけた時には、すでにコヘルの息はなく、アルシーとその後見人のタミアに見守られて静かに横たわっていた。
「元気で幸せにおなり」とアルシーの手を握り、タミアには「子どもたちを頼んだよ」と微笑んで、眠るように息を引き取ったという。

「間に合わなくてごめんなさい。お別れが言えなくてごめんなさい」
白玲は大粒の涙をこぼしながら、冷たくなったコヘルのてを何度もさすった。
ーーこの手に導かれて、この国へやってきた。雪の暗紫山脈では、この手を何度も握って温めた。
 白玲にとっても、コヘルは祖父のような存在だった。同時に、得難えがたい師でもあった。何をするのでなくても、ただいてくれるだけで守られている気がした。本当に困った時には、きっと正しい道を示してくれる人だと思っていた。白玲の心の中に、大きな穴がぽっかりあいて、迷子になった子どものように途方に暮れた。

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