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死から得た「なんのために生きるか?」という問いへの解

人間は必ず死ぬ。
みんな分かってる。
なのに、まるで生きることが当たり前で、永遠に生きているかのように毎日を生きている。
だから「なんのために生きるか?」なんてあまり考えないと思う。
イケてる起業家とか、維新の志士でもない限り、そんな大袈裟なことは一番後回しの問いではないだろうか。
ところが死と触れ続ける期間を通して僕は否が応でもそれを考えた。

最初の問いは「俺は生きたいの?」

当時、悶々とした気持ちをたくさんノートに書き出して必死に心を整えようとしていた。その時に、ふと、シンプルに思った。

「俺は生きたいのか?」

答えはYESだった。

では「なぜ生きたいのか?」を考えた。

その結果出てきた答えは「家族と一緒にいたいから」だった。

偉くなりたいとか、金持ちになりたいか、美味いもん食いたいとか、海外行きたいとか、くそどうでもいいと思った。

ただただ、世界一大事な家族といたいから、生きたいと思った。

なぜ生きたいかはわかった。

次に、「目的」を考えてみた。

では「なんのために」生きたいのかと考えた。

そこで思ったことは、世の中一般で価値のあると言われているものはあの世には持っていけないということ。

地位、金、名誉、名声、家、車、ブランド品。

全部、多くの人が価値があると思っているただの捏造品。虚構。

これ、病院のベッドでいくつもの器具を装着され、腹にチューブ、尿道にカテーテルを刺されながら何もできないでいると本当にそう感じる。

じゃあなんのために生きるの?生きる目的は?

「自分のいる世界といない世界の、正の差分を最大化するため」

これが今の僕の答え。

自分がいることで生まれる、誰かにとってのプラスを最大化していきたい。

そうすれば肉体的に滅びても、その人の中では生き続けることになる。

永遠の命の獲得みたいなものだ。

そのプラスを自分が生きる中で行う全ての営みを通して、できるだけ作っていきたい。

このnoteを始めようと思ったのも、その生きる目的のための手段。

死から得た、大袈裟な問いへの解でした。


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