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あなたに会うために生きている

わたしが「わたし」を持って生きることに意味があるとするならば、人生は「まだ見ぬ誰かとの待ち合わせ」なのだと思う。
待ち合わせるのには集合場所が必要だ。
しかし事前に指定されない約束なら場所も時間も分からない。もし会えた時にそれと分かるために、わたし自身が、自身という固有の情報を持ち歩いているのだ、と、考える。
真実がどこにあるかは分からない。
ただわたしは思うのだ、「あなたに会うためにわたしは生きてきた」と。
あなたに会わないままで、生きるのをやめることはできないのだろうと。

わたしがこの身をもって会うべきものに出会わないうちは生き続けるんだろうと思う。
実際のところ、今、「もう生きられないのではないか」という状態に近いと思う。この夏を越えられるか、いよいよ分からない。
会うべきものはもうないのだろうか。
しかし肉体の終わりなら、肉体を持つことを経て失って初めて出会うものに出会える時間がその先にあるのかもなあ、と、未だ生きるわたしは思わなくもない。
生きていられるならば、まだ、出会っていないあなたに、会うために生きてゆくのだ。

まだ生きていたい。
「生きたいから生きる」という気持ちはよくわからない。
「運よく」出会った誰かに、何かに、生かされて、生かしてもらってここまで来てしまった。
どうしようもなく、生きていると、ずっと思うからこれが、「生きたい」というものなのかもしれない。「生きたい」が分からないわたしが何よりも愚かものだから生かされているのかもしれない。
そう言うと、生を終えるものが立派であると信じているようだが。しかし、わたしは生きているものを信じる。
これは確かにあって。
「生きているものを信じる」のだ、わたしは。
そうして、肉体を失っても生き続けるものはあるのだ。
わたしは「死」を信じない。
終わりは「生」の完成の先にあるような気がしている。
「死」がなくなった時世界は終わる。
「死」がある限り世界はずっと生きている。
わたしの痛みは無くならない。
今消えていく命の痛みをずっと携えて生きている。ずっとどこかで悲しい。ずっとどこかで寂しい。

だけど祝福を知っている。
胸を満たすものは、こんなに生きることを知らないわたしのもとへ、何度もやって来る。

わたしは生かされているだけだ。

わたしは命の通り道だ。
命の行き交う待ち合わせ場所だ。

あなたは出会ってくれるだろうか。
わたしを通って、出会うべきものに、出会ってくれるだろうか。

生きたいんだと思う。

わたしは、生きたいんだと思う。





恐れ入ります。「まだない」です。 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。 サポート、ありがとうございます。本当に嬉しいです。 続けてゆくことがお返しの意味になれば、と思います。 わたしのnoteを開いてくれてありがとう。 また見てもらえるよう、がんばります。