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ずっと休んでもいいよ。


今日だけじゃなくてもいいよ。

行きたくないなら行かない。
やりたくないならやらない。

行きたくない理由が分かるまで、
やりたい気持ちが確かにあることを思い出すまで。

わけが分かるまではただ休めばいいし、
わけが分かったなら尚更休めばいいよ。

おのずとまた歩けるまで休むのが、難しいのはなんでかなあ。
取り戻せなくなる?
なんでそんなに急ぐんだろうね!生きてくってほんとにそんななの?
みんな休んでるんだよ。タイトなスケジュールで本当にこなせてる人は「休む時は休む」のがとっても上手なんだよ!

「他にやれることを見つけないと休んではいけない」。生き物の社会を考えたらそういうものなんだろうなあ。でもそれが社会の真実ならもっと即死だと思うので、はぐれても生きていられる以上、その自分にできることを見つけることに、制限時間いっぱい使うのは、可能なのではありませんかね。
時間いっぱい足掻いて結局ダメなのと即死するのと、どっちがいいかは比べられるか分からないし、並べて選べることでもない気がするし。


「なんでもいいよ。とにかくお休みしよう。」

言ってほしいのはきっといつかの「あのころ」のわたしだな。
助けてほしいわたしの声に、耳を傾けてくれるのは未来のわたしだけなのかもしれないね。わたしが「その道」を進んで大丈夫かは他の誰にも分からないんだから当たり前だよ。

未来はあるから大丈夫と、教えてもらう必要はないけれど。
たとえ休んでもその先の道が過酷なことに違いはないだろうけど。
大丈夫と言えるところまで自分で進んで、そこからいつかの自分の心を癒すことはできるんだね。
というか、「休むな」って言ってるように聞こえる声は、「こっちに来たら楽だよ」って教えてくれてるんだよね、そちら側からするとたぶん。わたしが過酷な道に進もうとしているように見えるから、一緒に、連れて行こうとしてくれてるんだよな。

過酷なのはいいの、わたしは大丈夫だ。
楽しむ体力有り余ってるんだよ。タフですみません。

まあちょっと休んでごらんよ。
周りは心配するかもしれないけど、「そんなに」心配するほど弱くない。
周りどころか自分だって、自分の強さを正確に知るのは難しいからなあ、むしろ客観のほうが正しく思えることもあるんだけど、立ち止まって自分で振り返ることを教えてもらうだけでいいこともあるんじゃないでしょうか。
それでまた、タイミングじゃない時に振り返ってもよく分からないものだから……


あのころのわたしを救う方法を、今のわたしが考える。
いつかのあのころ、今のわたしに会えたならきっと、こうなりたいと、思ったに違いない。
今日ふっとそう思えたんだよ。
あのころに、「なりたい自分」をイメージしたことはなかったけれど、今ある「わたし」が「なりたかった自分」そのものなんじゃないか。

生きているってきっとそれでいいんだね。
今はまだ、言葉だけでは伝えきれないことかもしれないけど、そう思えたとき、たしかに胸があたたかくなった。

いつかの自分を、救えるならば、生きていることは結構素晴らしいよ。




恐れ入ります。「まだない」です。 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。 サポート、ありがとうございます。本当に嬉しいです。 続けてゆくことがお返しの意味になれば、と思います。 わたしのnoteを開いてくれてありがとう。 また見てもらえるよう、がんばります。