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「間にもう一人いてくれたら」と思うことがありますか?

雑踏の中で聴こえてきた時、安堵を覚えた音楽を、部屋で寛ぎながら聴こうとするとつらくて聴くことができなかった。助けてもらったのに、わたしは同じところへは行けないことが悲しい。
だからって否定しなくていい。でも、受け入れなくていい。それは、要するに、ただ認識するということ。
同じじゃなくていい。「ここにいるのが平気だから助けてあげられる」わたしにだってそういう場面はきっとある。わたしは、わたしに案内できる場所をちゃんと確認しておくんだよ。

純粋な興味でたくさんの物事にかかわるよ。
たくさんのひとと友達になりたい。すべての人を尊敬して生きていたい。
芸術でいたい。詩でいたい。自然でいたい。景色でいたい。
フィクションでいたい。非実在でいたい。
たったひとりの、わたしとして、ただ生きて消えたい。生きたいということを、強く自覚すると同時に、いつでも消えてなくなりたい。きれいに消えてなくなりたい。
心がどんなに求めても、肉体は簡単に消えてなくなってくれない。
理想的な消滅に至るために今を生きようとすることは、罪だろうか。
傲慢だろうか。欲深いだろうか。

本当は構わない。きれいじゃなくてもいい。生きられなくてもいい。
だけど目指していたい。
目指すものを持たずに「わたし」を全うするのはあまりにも孤独だ。

雑踏に紛れることが上手にできない。
ちゃんと歩ける靴を履かないと不安でしょうがない。
だけど裸足で歩ける場所をわたしは知っているはずなのだ。

美しく消えるとは、どういうことなんだろう。孤独な火を掲げていく。わたしはわたしを愛するものにたどり着きたい。そのためにはずっと孤独で構わない。
わたしの孤独を守ってくれたものを思い出す。
音楽がある。絵や、言葉や、物語がある。ひとの営みを感じる、美しい表現たちだ。
誰かの助けになりたくて、「そこ」へ行こうと思うこともあった。だけど、その誰かにとって「そこ」は居心地のよい場所で、わたしが救い出す必要なんかなくて、「そこ」にあった優しい「表現たち」に、まるでここに居てはいけないよと、追い出されるようにわたしが救われるのだ。抜け出すならばこっちだと、あなたの場所はここじゃないと、助け出してくれるのだ。
彼らを、わたしが、「いっしょに行こう」と、連れ出すことはできない。

それでも、どこからか、なにかが、わたしについて来ることもある。彼らは自分の意志で、選んでわたしについて来るんだろうか。それともわたしが、知らずの内に、連れてきたのか?
そうだとすれば、わたしはどんな形で彼らを守ることができるだろう?
わたしの音の故郷はどこにあるんだろうか。色の、言葉の、光の、ふるさとはどこにあるだろうか。
帰りたい場所があるだろうか。届くべきひとがいるだろうか。
それとも、わたしに手向けられたのだろうか。もし、本当に、そうならば、わたしがただ大事に抱いて行けばいいんだろう。


傷ついた経験は、忘れられるなら忘れてしまえばいいと思う。ただ、孤独を抱えた過去を回収してあげられると、今の自分が強くなる。
まだ痛いなら無理に拾いに行かなくていい。休めばいい。今楽しいことに打ち込めるならそれがいいと思う。だけど引き戻されてしまう過去がどうしてもあるなら、諦めたくない自分がそこにいるんじゃないだろうか。
ただ過去にこだわっているわけではなくて、今の自分に必要なものや、これから先を生きていくために無くてはならないものが置き去りにされているんだと思う。

怖いなら仲間を連れて行けばいい。
連れて行ける仲間が見当たらないなら、仲間を見つけるところからだ。
ひとが空想だと言うものが、自分にとって「現実を生きていくために」必要なものなのかもしれないよ。空想に生きることだけが、空想の在り方じゃないんだよ。わたしにとっては立派な現実だ。

(それに、たぶん、空想と現実の境目は人によってバラバラだ。わたしはこれを「空想」と言い表すことにも違和感がある。自他と言い換えることもできるだろうか。他者をのみ現実とし、自分自身に向かう、いわゆる内向を空想とするのだろうか。わたしは、自分自身と必要なコミュニケーションを取っているだけだ。自分とのコミュニケーションに他者を介することは、誰しもあるのだと思うけどどうだろう?)

肝心な時にはやっぱりひとりで立ち向かうしかないかもしれないけれど、見守ってくれる仲間や、傷ついたら癒してくれる仲間を、増やせるだけ増やせば、できるかもしれない。
つらい記憶と結びついたまま封じてしまったものや、誰かに遠慮して好きな気持ちを隠したもの。見つけてあげられたら、きっと彼らがそのまま自分の仲間になる。

自分とのコミュニケーションの先には、他者とのかかわりがある。
自分に向かった先に、自ずと、ひとの顔が見えて来るはずだ。
だからこそ自分自身は、他の誰よりも手応えのあるコミュニケーションの相手なんだよ。


「間にもう一人ほしい」。意思疎通に困難を感じた時によくそう思う。
「共通の知人」と置き換えると、より普遍的かもしれない。「共通の趣味」や「共通の話題」、「共通の体験」がいいかもしれない。共通言語になるものがほしいということだろうと思う。
しかし実際はアプローチが変えられればそれで十分なことも多いと思う。そんなにしっかり共通である必要はないんじゃないか。
自分が「間の人」になろうとすると、結構疲れる。「もう一人」いることを自分で想定するだけで、伝わるために何が必要なのかは見えて来るんじゃないのかなあと思う。
「間の人」の存在の必要性に気付いて、自分がそうなってくれる人たちもいる。「間の人」になるのが上手な人は、自分の中に「もう一人」用の自分を作ることが得意なのかもしれない。

今はまだ、わたしの中の「仲間たち」を「実用的に」考えようとすると違和感がある。
わたしにできることは「そう」じゃないのかもしれないし、これから行く先に「そう」なっていく道が待っているかもしれないけれど。
もし、あなたが必要としているなら連れて行ってもらってかまわない。勝手について行ってしまっているかもしれない。
可能性を感じることがあるというだけで、わたしは生きられるから。「いっしょにいよう」と声をかける。傷つけられても平気だよ。だってあるんだからしょうがないよ。そこにいるんだから。


話を聞いてくれてありがとう。
あなたが、少しでも生きやすいのがいいよ。
可能なら、とても楽しいのがいいよ。



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恐れ入ります。「まだない」です。 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。 サポート、ありがとうございます。本当に嬉しいです。 続けてゆくことがお返しの意味になれば、と思います。 わたしのnoteを開いてくれてありがとう。 また見てもらえるよう、がんばります。