誰かのやり残した夢でも構わない
いつか何かになるかもしれない、ならないかもしれない。言葉だけじゃ届かないかもしれない。
だけどもし、このままで誰かの心を癒すことがあるなら、必要とするひとのところへ届けばいいと思う。わたしはわたしで何とかなるだろう。今必要とするひとに、届けばいいと思う。
正しさが許されていたい。お土産を持って、挨拶をして、靴をそろえて、玄関から入ってゆく正しさが好きだ。だけど勝手口から出入りする関係がある。正しさがすべてじゃない。気を許す関係は見ていて気持ちよくもある。
自分自身がそこに心地よさを感じないわたしは、正しさを許されていたい。正しくないと息ができない。正しさに息が詰まる人たちの自由を奪うことなく、気を許した関係を危険に晒してしまうことなく、正しいままで通れる道はありますか
コミュニケーションの傷がある。
共感しなくていいです。噂話しないでください。
好きにならなくていい。すっかり分からなくていい。
何か感じる気持ちがあるなら、それはあなたの体験です。
わたしを好きにならないで
わたしの言葉は完成しない。ひとりじゃ永遠に完結しないと思う。ちりばめていくしかない。誰かのための言葉しか話せない。
いつももどかしい気持ちだ、わたしの中に確かに誰かのための想いがあるのにどうやって渡したらいいかが分からない。出会っていくしかない。あなたと出会えたとき本当にうれしいよ。
わたしの想いを受け取ってあなたが誇らしく飛べるならいいと思う。わたしの心はあなたに出会うためにあったのだと思える。
そうやってわたしを生かしてくれるものをわたしは愛していると思う。
誰かに生かされるしかない、だけどわたしを好きにならないで
わたしの渡す愛はあなたがあなた自身に向かう気持ちだと思うから
あなたの中にある、持って生まれたあなた自身を知ることをしてくれた時、わたしはあなたの愛を受け取って、生きることができる
ひとはひとと関わらずには生きられないかもしれないけれど、みんな一人で生まれてくる。「生まれる」ということを知っている。生きるということを、自分で知って生まれてくるはずなんだよ。だけど両方に意味があると思う、人と関わることは人から知る、自分の中にあることは自分で持って生まれてる。どうかみんな、持って生まれた自分を知ることをしてほしい。
その手伝いをすることができたらと思う、「あなたはこんなひとだね」「あなたのこんなところがすてきだね」あなたがあなた自身に、眼差しを向けられるように。
持って生まれた自分を知って
わたしは光のつぶになって消えたい。
わたしがわたしを失ってもいいのか?
明日を生きていたい。来年を生きていたいよ。
わたしはわたしを「いない」ことにしたい。
間に「もう一人」ほしい。
わたしの理想には「全て」と「最も」がある
置き去りにされた誰かの夢に明かりを灯していく。
形にしようとしたら、誰が見ても大丈夫なように包んでしまう。
そうすると、伝えるべき相手に、伝わるべきことが、うまく伝わらなくなってしまう。
わたしの言葉は誰かに楽しんでもらうための創作ではなくて、コミュニケーションしたい相手に、伝えたいことを伝えるための表現であるように思う。その人だから伝わる言葉で話す。その人の中にある想いに働きかけるように、いつも言葉を探してる。
刺さる人には刺さる、みたいなことともたぶん違って、ひとことひとことが別々の人に届けるためにあると思う。端切れのようで、全部がつながってはいない。
パッチワークみたいに、それ自体を一つの作品として見ることもできるだろう。全部を見てくれるひとがそれをきれいだと思ってくれるならそれもひとつの必要性だと思うけれど。だけどわたしは一つ一つにそれぞれ渡すべき相手がいるような気がするんだよな。それにひとまとめのものを見てわたしの全てが伝わるのかと言うとまた違う。結構全然違う。
だから、縫い合わせてしまう前の状態でどうにかしてみたい。これは全く、勇気がいる。本当ならきれいに縫い合わせて、縫い目があることも分からないようにしたい。ばらばらにしておくことはあまりにも心地よくない。よく知らないひとから「あなたは親しみやすいね」なんて言われたくない。気難しい人でいい。
ホントは、わたしがどう思われるかなんてどうだっていいからとにかく誰かの無くした想いがちゃんと持ち主の元に戻るのがいい。
懸命に考えて生きている人たちを押しのけてまでわたしが生きる必要があるのか?
できないことができるようになるよりも、できないままでいていい関係を見つけるほうがわたしにとって現実的だ。
これは乱暴なやり方かもしれないけれど、正直に全部話す以外に自分を未来に連れていく方法がない。そうやって生きてきた。わたしはずっと生きづらいままだ。
悪は正しさの裏側にあるのではない
悪もまた無くすことはできない
正しさがある故に悪が生まれるのならば正しさとは悪をただすためにあるのではなく、ただ「ひとつの正しさ」のためにあるのが「正しさ」だと思う。
新しい考えや、新しいものが生まれる時、古いものを間違いや悪とする必要はなくて、どちらもあることに意味があると思う。
新しさはイコール正しさ、ではない。「今必要なもの」であるだけだ。今必要とする人がいるものは、正しさに近いものかと思う。だけど、古いものは「その時」の「今必要なもの」だったんだよ。だから今現在、もう要らない場合はあるかもしれないけれど、それが要らないんじゃなくて他にも必要なものがある、また次の新しいものがなければ今生まれる新しいものも十分には役に立たないこともある、と思う。
全部を残しておくことは現実的な問題で難しいこともある。
許容量がある。老朽化する。記憶は薄れる。自然に死を迎える。
自然と終わることは望ましいけれど、多くの形あるものは、アクシデント的に失われることも含めての寿命を持っている。
あらゆるものが自然と死を迎えられたらとても美しいのになあと思う。自然死はおだやかで、残されたものの心をあたたかくする。きっと誰も、残されるあたたかさを知る心は自分の中にあるはずだよ。
可能な限り、ものごとが自然な終わりを迎えられるのはひとつの理想なのだけど、現実にはいろいろと難しいから「共存」についてみんな悩み続けている。長い歴史で見たら自然と移り変わっているんだよ。だとしても、ひとりひとりで見たら、ひとつひとつ苦しみはあるわけで。
わたしの抱く理想には、「全て」と「最も」のふたつのイメージがある。
「最も」でない形でも、「全て」があることに意味がある。理由はなくても意味がある全てのこと。
「最も」は、きれいごとだと嫌うひともいると思うけれど、その美しさもあることに意味がある。
大きな客観で、あらゆる道を照らし出せたらと思う。わたしの命には限りがあるから、いつかこの挑戦も終わるだろう。
歩き出せているだろうか。
わたしは今ひとりじゃないだろうか。
すべてを愛する故のこの拒絶を誰かが理解するだろうか。
分からなくてもいいよ。
愉しくお話したいね。
恐れ入ります。「まだない」です。 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。 サポート、ありがとうございます。本当に嬉しいです。 続けてゆくことがお返しの意味になれば、と思います。 わたしのnoteを開いてくれてありがとう。 また見てもらえるよう、がんばります。