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だから「頑張るね」と言い続ける

外に出してあげたい自分はたくさんある。だけど、受け取るべき相手がいなければ簡単には出てこない。これは誰かから預かった、わたしのものではない気持ちだと思う。わたしだけのものならば、内側に抱えていられる。ただ孤独なだけなら抱えていられる。でも、見せずにおいてはいけないと、どうしても感じているなら、それが欲しい誰かがいるんだろう。たとえ痛みが強くても。誰かの痛みを預かっているんだよ。
だからわたしは伝える。

わたしは、伝えるという行動の楽しさを知っているのだと思う。
「伝わると嬉しい」のではなくて、「伝える、ということができる嬉しさ」を知っている。伝えるという行動そのものに、喜びがある。
別に伝わらなくてもいいのかというとそうではなくて、伝わることの嬉しさだってわたしは知っている。だけどそのふたつが、ひと続きである必要があると思わない。

伝えた瞬間に著しい反応が返ってくるとしたら、それは、その人の中に既に伝わるべき「芽」があったからなのだと思う。その人の中に培われてきたものから、芽を出す、或いは、結実するための、最後の刺激をきっとわたしが与えたのだろう。

わたしの伝えたいことが、初めて伝わったのなら、それは決着ではなく、またどこかで結実するまで歳月を必要とするものだろうと思う。本当に伝わったのなら、あなたに、届いたのなら、あなたの中でその想いを確かに育ててほしい。
見届けることができなくてもわたしは構わない。
伝えるという形を得た時、わたし自身が得ているものがあるから。

伝えていいと思える時、わたしは強くなる。
話すべき相手を得ないと、ぜんぜんだめだ。
聞いてくれる、見ていてくれる「あなた」がいると思える時、本当に心強くて、だけど、そう思わせてくれた相手が実際に受け取ってくれなくても構わないと思う。語る勇気をくれた相手に直接伝わることを、伝えられるとは限らない。きっかけをくれたからといって、その人が、わたしが話すことを全部受け止めて理解しようと思わなくていい。
聞いた上で、「あなた」が理解したいと思ってくれるなら、わたしはもっとちゃんとあなたに届く言葉で伝えるから。
わたしのやりかたで伝えていいのだと思わせてくれた「あなた」には、わたしがわたしである姿を見せ続けることでしかきっと返せない。きっと変わらず伝えて行くから、どうか見ていてほしいと思う。

言葉は受け取る人のためにある。だけど、抱いた気持ちはわたしのものだ。
伝わらないことに、虚しさを感じないわけではない。しかし伝わるまで伝えるのはいつだって、わたしのための闘いだ。その人にとって、気づかせる相手がわたしじゃなくていいのならそれでいい。
わたしから、何か受け取れるものを感じるのなら、わたしにあげられるものなら何でもあげるよ。あなたにあげるよ。あなたに渡すために預かっているものが、きっとあるんだね。
すっかり伝わるまでの歳月を過ごせたらとても幸せなことだと思う。

あなたに伝えられることを、あなたがすっかり受け取ってくれたなら、わたしはその時初めて、わたしのための言葉を、あなたに聴かせることになるだろう。
わたしのためのわたしを、あなたに見せることになるだろう。
あなたのための本当のわたしを、見せることができるだろう。

わたしは本当のわたしに近づきたい。そのために、伝え続けるんだよ。



わたしは、わたしのこの身体で感じてきたことしか知らないけれど。わたしの伝えられることが、あなたの力になるのなら。背中を押すから、手を引いて。手を掴んで。その手を握り返すから。あなたの手をちゃんと掴むから。わたしたちはそうやって、形のないままでここまで来た。この手で掴むことができるものはあるだろうか。誰かの手を、掴んであげられることはあるだろうか。もっとおおきなわたしたちになることを、わたしはまだ怖がっているけれど、怖いけれど、構わない。怖いままでも。わたしは、わたしは脅かさない。欺かない。ただわたしたちが生きられる道を、拓いて行きたいだけだ。それだけだ…


恐れ入ります。「まだない」です。 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。 サポート、ありがとうございます。本当に嬉しいです。 続けてゆくことがお返しの意味になれば、と思います。 わたしのnoteを開いてくれてありがとう。 また見てもらえるよう、がんばります。