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三日坊主日記 vol.20 『ことばにならない(続)』

それから数年。
僕たちが30歳の年に会社を解散することになった。

親会社の業績悪化の煽りを受け、子会社である僕たちの会社も解散することになったのだ。子会社だけ切り離して続けられないのかと思ったが、ボスにその気はないようだった。

僕はフリーランスのディレクターとして独立。彼はCMカメラマンに成りたいと言い出し、また一から修行の道を選んだ。僕はもちろん、周りはみな彼の判断を疑問に思ったが、彼は自分で決めた道を進み、僕たちはそれを応援した。暫くは彼も大阪にいて修行をしていたので、撮影現場で一緒になったり、会って食事をすることもあったが、いつの間にか彼は東京へ活動の場を移し、会う機会は少なくなった。

あまり詳しくは聞いていないし、よく覚えていないけれど、亡くなったプロデューサーと親しくなったのはこの頃だったように思う。彼はそのことについてあまり話さなかったが、彼女からは何度か馴れ初めを聞いたような気がする。本当に意外な組み合わせだったけど、お似合いだと思った。

何年かして彼はカメラマンとして独立し、東京でバリバリと仕事をした。僕も何度か仕事をお願いし、一緒に作品を作った。その頃は既に二人の間に娘さんが誕生していて、奥さんも業界を離れていたように思う。彼とも彼女ともなかなか会う機会がなかったが、何となく風の便りで元気でいるということは知っていた。

数年経ったある日、彼から会いたいと連絡が来た。阪急梅田のコンコースにあるカフェで会ったのをよく覚えている。彼は僕に、その後の人生を左右するある提案をしてきた。しかし、その提案は僕にとって無謀で、とても乗っかれるようなものではなかった。その時、彼は悩んでいたように思う。しかし、彼らしく他人には弱みを見せず、強がっていた。強がっていたけど、確かに悩んでいたと思う。そんな彼に僕は助け舟を出してあげられなかった。

それから数年が過ぎた去年の今頃、共通の友人から彼が亡くなったらしいという連絡が入った。詳しくは分からないが、それは2019年のことで、自死だったそうだ。

僕らが阪急梅田で最後に会ってから2年ほど過ぎた頃だろうか。それっきり彼とは会ってなかったが、元気にやっているんだろうと4年間も勝手に思っていた。僕があの時彼の提案に乗っていたらどうなっていただろうかと、考えても仕方ないことも考えた。残された彼女(プロデューサー)と娘さんのことを考えると居た堪れなかったが、連絡することはなかった。というか辛くて出来なかった。


彼が撮影担当、僕が演出担当したTVCMのひとコマ。横浜でロケしたホラーもの


それから一年。
1月17日の夜に知った彼女の訃報。娘さんはおそらく大学生くらいだろうか。僕には何も出来ないが、どうか強く生きて欲しいと思う。
そして二人のご冥福を心からお祈りします。

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