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直接想起説

「うーん、どうだったかな。上手く思い出せないな」
とJ氏は言った。
「思い出すのではないのです。その時どうだったかを確認するのです」
と博士は言った。
「ええ、確認しようとしていますが、上手く確認できないのです。実を言えば、興奮していてその時のことをよく覚えていないのです」
J氏は観念したようにそう白状した。

博士は首を横に振り、長いため息をついた。
「あなたはまだわかっていない。覚えているとか、覚えていないとかの問題ではないのです。確認するのです。いいですか。その時のことを目で見て、耳で聞いて、確かであることを、認めるのです。これが”確認”です」
J氏は一瞬固まり、それから
「よくわかりません。まず、その時のことを目で見て、耳で聞いて、というところがまだ上手く理解できていません」
と答えた。

「そうですか。あなたはあなたがその調合を成功させた時点へ遡り、その時のレシピをあなたの目で見て、確かめるのです。そして、その結果をすぐに私に知らせてほしい」
博士はすがるような表情でJ氏を見つめた。
J氏は緊迫した状況であることだけは理解したが、博士の言っている意味は全く分からなかった。
「私が確認しなければならない事項はよく分かりました。私は自分が成功させた実験のレシピを確認しなければなりません。これはあやふやな記憶では困ります。博士は”確かな”答えを必要としている。
ただ、私はその時のことを鮮明に思い出す事ができない。なぜなら、実験が成功して喜んだひょうしに実験のレシピの上にコーヒーをこぼしてしまってレシピが読めないようになってしまったから」
博士はゆっくりと辛抱強くJ氏の話を聞いていた。
「そうともそうだとも。君は私の実験を成功させてくれた。だが、成功させた時のレシピを失ってしまい、成功が再現できなくなってしまっている。これでは成功していないのも同然だ。わかるね?」
博士がやさしくそう言うと、J氏もどうにかそれに応えたい気持ちだった。

「君は過去を思い出そうとしている。まず、それが間違いだということを知ってほしい。過去は思い出すものではない。いいかい?何度も言うが、”確認”するものなのだ」
J氏は今度こそ理解しようと努めた。博士は続ける。
「過去は時間構造の中に保存されている。君の頭の中ではない。すべての過去は自動的に時間の中に完璧な状態で保存されている。まずはここを確認してほしい」
J氏は博士の言葉を何度も反芻した。
すべての過去は自動的に時間の中に完璧な状態で保存されている。
「ということは、我々の成功のレシピももちろん完璧な状態で保存されている。問題はその完璧なレシピ、君がコーヒーをこぼす前のレシピ、をどう確認するか、だ」
そこで博士は腕組みをして考え込んでしまった。

すべての過去は自動的に時間の中に完璧な状態で保存されている。
それをどうやって確認するか。
インプットは完璧なのだ。問題はそれをどうやってアウトプットするか。

J氏はピンと来て、「タイムマシン!」と叫んだ。
博士は、「はいはい」と流して取り合わなかった。
そういう物理的な事ではないのであった。もっと精神的な事なのだ。

そこからJ氏は時間にアクセスする訓練をはじめる。
まずは自身の一瞬前の過去へアクセスすることを試みた。
頭の中の記憶に頼ろうとする習慣を一切断たなくてはならなかった。
心を無にして、自身の一瞬前の時間にアクセスするのだ。
それを続けているうちにぐわっと一瞬だが世界全体の一瞬前が確認できるようになった。
時間に自動的に保存されている情報にアクセスできた感じだ。
しかし、ここで大きな問題にぶつかった。
時間に自動的に保存されている情報量が膨大すぎて、J氏の頭では情報が処理しきれないのであった。

「博士、過去を確認するというのがどういうことなのか少しずつ分かってきました。自分の頭の中ではなく、実物の過去そのものに直接接続する、という感じですね」
J氏は博士にそう言った。
「そうだ、その通り。実物の過去そのものに直接接続して、確認してほしいのだ」
博士は感心したように、うなずいた。
「ただひとつ問題があります。私の頭では実物の過去そのものの情報量が多すぎて上手く処理ができないのです」
博士はまた腕組みをして考え込んでしまった。

「都合よく、あの日のあの時間、あのデスクの上のメモ、という過去は取り出せないのだろうか」
博士はそのことについて考えていた。
「まずは、膨大な情報量を絞り込むことが必要ですね」
J氏も博士と一緒になって考えてみる。

「あの日のあの時間、君は何か感覚を使ったりしていなかったかい?例えば、コーヒーの香りとか、聴いていた音楽とか、着ていた白衣の肌触りとか。五感を使うようなディテールを挙げてごらん」
博士はそう言って、J氏の回答を待った。
「そうですね。僕はあの日のあの時間、コーヒーを飲んでいて、音楽は、ビートルズのHello Goodbyeを聴いていました。着ていた白衣は今着ている白衣と同じ」
博士はJ氏のいつも使っているマグカップにコーヒーを入れ、彼に渡した。
それから実験室にあるオーディオ機器からビートルズのHello Goodbyeを流した。
「いいかい、君はあの日のあの時間にアクセスするんだ」
博士はデスクに白いメモ用紙を置き、J氏にボールペンを握らせた。

「いいかい、他の情報はすべて無視するんだ。コーヒーの匂いとビートルズのHello Goodbye、そしてよれよれの白衣、その感覚だけに集中するんだ。そしてその時が来たら目を開いてメモを確認し、そしてすぐにこの紙にレシピを書き写す」
博士は彼の一挙手一投足を見守った。
彼は来るコーヒーの匂いとビートルズのHello Goodbye、そしてよれよれの白衣に感覚を集中させた。

実験は失敗に終わった。彼はあの日のあの時間の過去にアクセスできなかった。
なぜなら、彼はいつでもコーヒーを飲み、ビートルズのHello Goodbyeを聴き、よれよれの白衣を着ていたからだ。
膨大な毎日の記録が確認でき、記すべきレシピは上手く見つからなかった。

そして、彼はナンセンスなことに気が付いてしまう。
「博士、時間には実物の過去が保存されているようですが、どうやら実物の未来も保存されているようです」

そしてJ氏は一つの式をさらさらとメモ帳に記した。
「僕は未来もコーヒーを飲み、ビートルズのHello Goodbyeを聴き、よれよれの白衣を着ているようです。
そして博士、あなたと一緒にこの式を発見するようです」

J氏が記した式はシンプルでこの世の真理の一部を描写したような式であった。
「そうか、そうかね。時間には実物の未来も保存されているのかね。安心したよ。この式があれば、我々の仮説は実証される」
博士とJ氏はコーヒーを飲み、ビートルズのHello Goodbyeを聴いた。
「白衣を新調しようと思っていたが、このままの方がよさそうだな」
「ええ、そのようです。このままがいいようです」
J氏は忘れないようにその式を自分のノートにメモをした。
しかし、その式は簡潔に完結しており、忘れようがない美しさであった。

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