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世界一の金持ち

世界で一番の金持ちM氏が開催する宴会に最後まで残ったのはT氏である。
みんなM氏と近づきになりたくて、その宴会に参加していた。
そして、その中身が惨憺たるものだと知るとそそくさと出鱈目な嘘をついて去っていった。

では、その惨憺たる宴会になぜT氏は最後まで参加し続けたのか。
T氏にはその器が備わっていたためか、嗜み方を知っていたからか、をかしみを「をかし」とするをかしさを持ち合わせていたからか。

そのどれでもない。
T氏はそれらのどれも持ち合わせてはいなかった。しかし、結果的に世界一の金持ちであるM氏と握手して別れたのはT氏だけであった。

そして、M氏はT氏にすべての資産を譲り、引退していった。
彼らは握手し、M氏は最後にこう言った。
「次は君の番だ」

黙っていても無限に増え続ける利子、特に複利というやつは全くの悪夢のようだった。
T氏が寝ている間に、T氏がものを調べている間に、T氏が散歩をしている間に、爪の掃除をしている間に、目をこすっている間に、金は増え続けた。
金はまるで偉大な津波のように徹底的なエネルギーですべてを飲み込んでいった。
それは暴力であり、つきまといであり、待ち伏せであった。

物欲や食欲や向上心などではその大波に立ち向かえるはずもなかった。
T氏の心は折られ、あざ笑われた。
世界一高い腕時計を買ってみたが、何だか恥ずかしくなって、海の底に沈んだ段ボールの中に隠れこんだ。
そして、段ボールの入り口にチンアナゴが住み着いた。

チンアナゴは、本当は人に会いたいのだが、いざ人が訪ねてくると、さっと隠れて、いくら呼び出されてもなぜか居留守を使ってしまうのだ、という話をした。
世界一金持ちのT氏は、
「それは困ったね」と言った。
でもT氏も同じようなものだった。

世界中の資産を受け継いでどこかに消えてしまったT氏を世界中の人が探していた。海の上の方では頭に電灯をつけたちょうちんあんこうのようなダイバーがうようよ漂っていた。

「あれはあなたを探しているんですか?それとも私ですか?」
あるときチンアナゴはそう聞いてきた。
「あなたでも私でもないですよ」とT氏は答えた。
「資産というものを探しているのです。でも、まあ、隠れていましょう」
T氏がそういうとチンアナゴもそれに同意した。
「私の知り合いのチンアナゴは、ああいうダイバーにつかまって、水族館に連れて行かれたそうです。水族館ってひどい名前じゃないですか?水族って何です?なんか族って、野蛮な感じしません?ほら、暴走族とか、ネットモヒカン族とか」
チンアナゴは砂をまき散らしながらそんな話をした。

T氏は水族についてイメージをしてみた。
水族の対義語は何であろう、おそらく陸族であろう。
軍隊式に考えれば、空族もなければなるまい。
なるほど、住む場所で族を分けるとすれば、T氏は陸族に属するのだろう。
でも人間のことを陸族だという人はいないし、象のことを陸族だという人はいない。
そう言えば、人間の言葉には民族という言葉がある。

「あ、私は民族ですよ」とT氏は思った言葉をそのままチンアナゴに告げた。
チンアナゴは、何の話です?という顔をしていた。
「ああ、私はあれから水族について考えていたんです。私は何族かなあ、と。それで民族という言葉があったなと思いついたんですけど、民族って言われていやかと言ったら、そうでもないかな、とか考えていました」
T氏が照れくさそうにそう言うとチンアナゴは、
「ああ、昨日の話の続きでしたか。それは思い至らなくて申し訳ない」
と言葉では謝っていたけれど、やれやれという顔をしていた。
「民族っていうのは何です?民ってどういう意味なんでしょう。私も民ですか?」
チンアナゴはひょっこり顔を出してそう言った。
「民っていうのはですね。おそらく、選ばれし者以外の者すべてを指すのだと思いますよ。選ばれし者に対して、選ばれていないすべての者というイメージかと思われます。国に属していれば、国民とも呼ばれたりしますので」
T氏は自信なさげにそう言った。
「じゃあ、私はまさに民じゃないかね。私もあなたも民でしょう。というか、民が圧倒的多数でしょう」
チンアナゴはそう言った。そうですよ、私もあなたも民ですよ、とT氏は言った。
「ちなみに聞いておきますが、圧倒的多数の民に対してその選ばれし者は何と言うのでしょう?」
チンアナゴの質問にT氏は黙り込んでしまった。
民の反対は官か。官族という言葉はあっただろうか。
しかし、官もある意味国民ではないか。
官というのは、きっと役割のことだ。国の方針をその通りに実現する役割を持った国民のことだ。
といことは実質的に民を統べる者がいるはずだ。民の中心にいて、選ばれし者がいる。
「それが王族である」とT氏は言った。
チンアナゴは砂の奥底で眠っていた。

つづく。

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