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紙吹雪に凍えろ


 この冬、所用のため少しだけ出掛けた先で、久しぶりに雪を見た。
 白銀に覆われた樹々を眺めていると、先日、雪にまつわる文章を書いたことを思い出した。
 文通していたおじいさまに教えてもらった、心に残る雪景色のお話だった。
 あたたかい電車の中でぼんやりと、私は雪の思い出を手繰り寄せていた。
 私にも、忘れられない銀世界がある。
 その記憶に泥雪はなく、除雪車が走る音も聞こえない。
 それもその筈だ。
 あれは、ただの紙吹雪だったのだから。

 昔、蜷川幸雄さん演出の「近松心中物語」を観た。
 人形浄瑠璃「冥途の飛脚」が土台となったそのお芝居を、当時中学生だった私はずっと観たいと思っていた。
 大坂の飛脚の忠兵衛は、遊女梅川を慕うあまり、身請けの金を工面しようと公金に手をつけてしまう。
 追われる身となった恋人たちがこの世で生きる場所はなく、二人は手を取り合って吹雪の山へ歩み入る。
 長い暗転ののち、舞台にゆっくりとあかりが入る。
 闇に沈んでいた客席にも明るさが戻ると、目の前に雪が降りしきっていた。
 私の肩に、手に膝に、白いかけらが落ちてきた。
 舞台の上だけではなく、客席が、劇場全体が冬山に姿を変えていた。
 目を凝らしたその先に、身を寄せ合って歩き、雪の嵐に飲み込まれていく梅川と忠兵衛がいた。

 今思えば、前方の席だったとはいえ、本当にそんな大量の紙吹雪が客席にまで飛んでいたのだろうか。
 特別な演出だったか誇張された記憶か、定かではないしどちらでも良い。
 暖房の効いた客席に座り、私は自分の吐く息が白いとさえ思ったのだ。
 私は確かにあの時、吹雪に閉ざされた大和路にいた。
 人工の風に舞う紙吹雪は、白かった。
 その雪は、冷たかった。
 その雪は、悲しかった。
 死へ向かう二人の幸せを、その白は覆い尽くした。

 
 演劇の中で雪が降るシーンには、「リセット」「新しくなる」というような意味合いがあると習った。
 もちろんお芝居の内容によっては異なるし、観客がどう解釈するかはその人それぞれである。
 演出の手法として、真白い雪が降る様子は視覚的にもインパクトが大きく、何かしらの転機を表現しやすいということだ。
 中学生だった私は、そんなことを知らずに観劇していた。
 あれから時が流れ、ほんの端っこだけど、舞台に立つことを経験した。
 演劇についての知識を齧り、舞台を知ったような気になった今の私が、もう一度あの作品を観たならどう感じるのだろう。
 私はおそらくもう、あの暗転から雪山へ行くことはできない。
 
 
 

 電車が走るにつれて、窓の外から雪は消えていった。
 用事を済ませるための束の間の外出だったが、それでも心はちょっとした旅気分の余韻を宿していた。 
 そうだな、でも。
 私がもう一度見たいのは、あの銀世界だなあ。
 何も知らない子供の頃、吹き荒ぶ大和の雪に打たれて見た景色。
 大道具さんが作った紙吹雪の下で、この両手は確かに凍えていたのだ。





 



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