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指をうっかり切ってしまって考えていたこと

指を包丁で切ってしまった。結構深く行ってしまって、3-4mmくらいだろうか。しばらく血が止まらなかった。流水ですすいだのち、舐めときゃ止まるだろうと思ってしばらく咥えていたが、流石に程度があるというもので、この深さではちっとも止まる気配がない。舐めて止めるのを諦めて、
指を伝うままにしておいて液体が流れる様子を観察していた。写真に撮るとグロいので撮らなかった。肉片は排水溝に流れた。

傷口からどんどん出てくる血液はほとんどあぶくを作ることはなくて、傷口からむくむくと湧いて少しだけ盛り上がり、表面張力なしにサラサラと流れていく。質感は思っていたのと違った。
あとは腕についたのを擦るとインクではなくて赤血球のざらつき、微小なものが見えた気がした。

さっきまで体内にあったものが体外に出るとめちゃくちゃ汚く感じる、嫌悪感の心理がある。
尿にしても血液にしても、排出の直前1秒前までは何とも感じないのに。
排出は必要だったり欲望だったり。
大概の場合体内から出るのは代謝物老廃物なので、体内に出たら汚いと感じるのは当たり前なのかもしれない。必要がない=排出する。

流れ出た血は粘性を持ち血餅として止血に役立ち、排泄は膀胱なり大腸なりを空にして再度のためのスペースを作る。排出は必要なプロセスで、
貯めていたって仕方がない。

そうやって考えていたら、何だか自分のやっている研究という仕事も酷く汚く感じてしまって困った。フレッシュで文字通り血の通ったアイディアや仮説こそが美しくて、申請書に書いたり、実験で回収された仮説も棄却された仮説も汚らしい、
もう美しくない。
論文は要するにアイディアが出版物という形になったものではあるけれども、もうリバイスをしてる時なんて苦しみしかないし、早くさっさと終わってくれとレビュアーに悪態をつき追加実験が成功するよう祈りながらデータを睨め回す。
仕上がった喜びってのはともすれば下手したら初版フィギュア案を仕上げた時がピークで、受理されましたなんて時は「やっとか。。。」だし、オンラインに乗りましたとかプレスリリースが、なんてときはもう存在がはるか後方にあるやっと飛んだハードルみたいなものになっている。
私のいるようなウェットの分野では、
特に実験をしなければデータが出ないのだから
何にもならないのにね。
実践に移すのを面倒くさがっている怠惰さから来る言い訳、戯言だ。
私はいつも言い訳をする。
白黒思考で歪み切った認知と、
拗らせた承認欲求と、
どこまでも低い自己肯定感で
頭を一杯パンパンにしながら毎日暮らしている。


あ、そういえば、今日共著に入った姉妹誌がオンラインになりました。嬉しいです。
ヒトのがん患者さんの腫瘍を移植したモデルの部分は私が担当しましたよ。
このPatient Derived Xenograft手技を完璧に身につけたことで、ラボでもプレゼンスが出たけれど。
アイデアとか、コンセプトとか、そういうところで私は何の貢献もしていないし、ただの技術屋として関わったとしか思えていない。高給技官というような。それはクビを切られるのも残当といったところでしょう。ラボはいま入れ替わりの時期。
テニュアを取ったボスが次のフェーズに進む時の
人材として私は選ばれなかったわけだけれど、
私だってここで「過去最高の私」を出しきれたと
思っていない。来て2年ぐらいは、

「優秀な人間ならどこへ行っても活躍できる」とか
「置かれた場所で咲きなさい、
 咲かないなら死になさい」とか
半ば宗教じみた考え方に自分で自分を洗脳して、
結果去年の夏頃は特に無力感と徒労感が酷くて、
夏の日差しに焼かれながら
「太陽はこんなに晴れていていい天気を皆様にお届けしているのに、私はメンタルがいい天気じゃなくて世間に申し訳ない」という有様だった。
完全におかしいだろwww

そのあと、
実質のクビ通告を経て落ち込み通したのち、
「私にはもっと私が全力を出せる場所があるはず」の思考に至る。
至るにあたっては、たくさんの友人に
いっぱいいっぱい話を聞いてもらった。
感謝しかない。恩返し、絶対にする。

ところでしかし、
この「私にはもっと全力を出せる場所があるはず」の思考は自分のパフォーマンスを環境に依存させすぎている。
天国のようなラボはない。
どこにも一長一短がある。

だから「自分に合うラボを見定めさせてもらえる」チャンスにするんだ。
たとえ何十通も断られることになっても。
私という人間は1人しかいない。だから、
オファーはたった一つ、
たった一つ出たらもうそれで成功なんだ。
たくさんオファーをもらうことが目的ではない。


今は行きたいラボをリスト化して(リストできた)
教授陣に連絡するためのお手紙をラボごとにラボに内容を寄せて書いている(まだ仕上がりに満足してない)
履歴書は毎年就労ビザのためも兼ねて更新していたのが幸(できてる)

論文数は今日のオンラインでco-first article 1, co-first review 2, co author 4になった。
壮壮たる顔ぶれの姉妹誌オンパレードである。
もちろん実際に関わったし、執筆も担当箇所書いたし、実験だって一発で決めたわけじゃない。
とある共同研究では先方の条件でやったらどえらいことになり最適化を挟んでやっとベストな条件を見つけられたので実験として5,6,回やったような。
それでも自信が持てない。
これは卑屈とか謙虚とかの問題ではない。
私は私が「ベストを尽くしている」と思えるよう(これはハードソフト面両方での環境)に
自分を持っていかなければならない。

プロジェクトとして今は3つアイディアがあって、ちょっとプレリミっぽいデータも出てて、楽しそうなんだ。ディスカッションしたい。

そして「研究活動=老廃物」という狂った考え方に戻るけれど、これについても考え方を変える。
思いついた数少ない仮説に囚われていつまでも実験作業に落とし込むアクションを起こさないでいたら、それは老廃物を延々と貯めているようなもので、いずれ内側から腐っていく。
老廃物を出し切れば、また貯めるスペースが生まれるから、仮説が生まれうるポテンシャルがあるし、汚物まみれだと思っても、私が考える最も美しいフォルムである
「外に出る前のアイディア」が湧く。
それは体内をめぐる。
研究活動は一連のそのプロセス。
巡回、循環であり、新陳代謝なのだ。
こじつけでもいいから肯定するロジックを組み立てて進んでいけたらいい。

そんなことを考えていたら血が止まっていた。
よく流水ですすいだし、絆創膏を3重につけたから、安静にしていればうまいこと治るだろう。

うまいこと治す。そうなのだ。
そりゃ自ら傷つきたくはないけれど、
傷ついても、
治す力がある範囲で治したらいいってことさ。



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