見出し画像

ピート・ベスト

先日、YouTubeで、2023年ピート・ベストがリバプールのカサバ・コーヒー・クラブでドラムを演奏している動画を見つけて、思わず見入ってしまった。
曲は、ビートルズ時代に彼らと演奏したナンバー、Till there was youと、My Bonnie
80歳を超えているのに、達者なドラムさばきで、頭髪は薄く、白くなっているが、往年の端正な顔立ちはそのままだ。

え?ビートルズのドラマーはリンゴ・スターじゃないの?と思われた方もいるかも知れない。
それも当然で、1962年メジャー・デビュー以降のビートルズのドラマーはリンゴ・スターであり、昨年リリースされたビートルズの最後の曲「NOW AND THEN」でも、ピート・ベストの映像は当然使われていない。数多いビートルズのドキュメンタリーでも、昔の写真が使われることがあっても、本人がインタビューを受けることはほとんどない。まるで、最初から彼などいなかったことにされている様でもある。

ピート・ベストはビートルズのオリジナル・メンバーであり、1960年から1962年のシングル・デビューまでの間、リバプール、ハンブルクでジョン、ポール、ジョージと共に、バンドの要であるドラム演奏を1000公演以上続け、メンバーの中で最もハンサムで女性に人気があった。

ピート・ベスト
ハンブルク時代のビートルズ 左からピート、ジョージ、ジョン、ポール、スチュアート・サトクリフ

「でもドラムは下手だった」と、ドキュメンタリー「ザ・コンプリート・ビートルズ」の中でプロデューサーのジョージ・マーティンは言っているが、本当に下手だったのか?
今聴くことが出来る当時の音源を聴いても、リンゴ・スターと比べてピートの演奏が劣るとは思わない。
実際、ジョージ・マーティンも、デビュー・シングル録音においてピート・ベストは相応しくないと考えただけで(ロックンロールのライブと正式なレコード会社の録音はスタンスが違うのは当然のこと)、レコーディングの日にメンバーがリンゴ・スターを連れて来ても、彼のドラムに満足せず、ドラムはセッション・ミュージシャンのアンディ・ホワイトが担当して、リンゴ・スターにはタンバリンを叩かせている。

ビートルズは、「ラブ・ミー・ドゥ」でシングル・デビューする前に、トニー・シェリダンのシングル「マイ・ボニー」のバックで荒削りな演奏を聞かせている。後にビートルズのマネージャーになるブライアン・エプスタインは当時レコード屋を経営していて、このシングルを求めるファンが日々押し寄せるので、ビートルズに興味を持ったと自伝に書いている。
ジョン、ポール、ジョージの演奏、コーラスは、バックバンドなのにすぐにわかる程特徴的で、エネルギー溢れるドラムでサウンドを引っ張るのはピート・ベストである。

このシングルはトニー・シェリダン&ザ・ビートルズ(ドイツではビートルズではわかり辛いという理由でトニー・シェリダン&ザ・ビート・ブラザーズ)の
名前で発売された。
当時は、この様にリード・ボーカルの名前を前面に出して売り出すことが多く、ビートルズもそれに倣って、ジョン・レノン&ザ・ビートルズで売り出そうとしたことがある。この時期に録音された、ジョン、ポール、ジョージ、ピートによる「エイント・シー・スウィート」

同じ頃録音された、レノン&ハリスン作曲の「クライ・フォー・ア・シャドウ」。
インストゥルメンタルというのも珍しいが、レノン&マッカートニーではなく、ジョンとジョージがギターで2人で作曲したのはこの曲だけ。ポールはベースとシャウトのみ、ドラムはピート。

冒頭で書いた、昨年ピートが演奏していた場所のカサバ・コーヒー・クラブは、ピートの母親モナ・ベストがオーナーの1959年にオープンしたライブ・ハウスである。
当時まだビートルズの前身バンドだったクオーリーメンはここで定期的に演奏、店のオープン時には、ジョンやシンシア(最初のジョンの妻)も、店内の壁に絵を描くのを手伝っている。
やがてビートルズがドイツ公演に行くのにどうしてもドラムが必要になり、ピート・ベストは彼らに頼まれてビートルズのドラマーになった。
ビートルズが最も苦労した下積み時代に苦楽を共にしたピート・ベストを、ジョージ・マーティンの一言「彼のドラムはレコーディングには向いていないから、セッションドラマーを用意する」(ジョージ・マーティン本人も、ライブはピートでいいと思っていたし、ドラムを交代しろとは言っていないと後日語っている)だけて解雇してしまったのか。
それも、メンバーが本人に伝えたのではなく、マネージャーのブライアン・エプスタインにピートの解雇を丸投げしてしまったのである。
苦楽を共にしたメンバー達は全員本人への告知から逃げて、その後彼はメンバーの誰とも会っていない。
理由を掘り下げ様にも、予測でしかない。
真実はたとえ当事者の記憶であっても忘却の彼方なのではないか。
バンドだけでなく、世の中、こういうことはよくある。

私はもし〇〇だったらとう考えをしない。
ピート・ベストは1960年から1962年の間でビートルズでの役割を全うした、
その後のビートルズの活躍、サウンドはリンゴ・スターが加入したことによって完成の域に達した、
と考えている。

ピート・ベストに関して、世間では、「ドラムが下手だったから」とか、「メンバーと仲が良くなかった」とか、「1人だけマッシュルームカットにせずリーゼントのままだったから」とか、好き勝手なことを言われている。本当にそうだろうか?

「ビートルズになれなかった男」とか「5人目のビートルズ」と言われることもあるが、これも本人にとっては失礼である。
ビートルズに頼まれてビートルズになった男でもあるし、メジャーデビュー直前まで、ビートルズはジョン、ポール、ジョージ、ピートの4人だったから、5人目ではない。
彼に対しては、ビートルズのオリジナル・メンバーとしての敬意を持ち続けて来た。

解雇を告げられた時、家に帰ってからピート・ベストは男泣きに泣いた。
当たり前である。メジャーデビューを目指してリバプールやハンブルクで1000公演以上の演奏を行い、デッカとEMIのオーディションに参加、ようやくオーディションに合格して、さあこれからという時点でのいきなりの解雇である。
彼の父親はボクシングのプロモーターであり、
彼も子供の頃父親とボクシングの真似事をしながらそれをドラムのテクニックに活かした。
リバプール・カレッジエイト・スクールという優秀な学校を上位の成績で卒業、
ラグビー部では主将を務めていた。
しかも当時男が泣くというのは余程のことであった。
彼の母親は、泣き続ける息子に、「男が泣くのは恥ずかしいことではない、思う存分泣きなさい」と声をかけたという。

ビートルズ解雇後のピートは、しばらく音楽活動を続けたがうまく行かず、妻子を養うために芸能界を引退、しかしどこの会社を受けても、「あなたはどうせ芸能界に戻るでしょう」と言われて落ち続けるという経験をする。
芸能界には戻らないという実績を作るため、あえて1年間パン工場で働き、その後、市役所の職員として20年以上真面目に勤務する。

自分の父親がビートルズだったことを、学校の友達に教えられて質問してきた娘との会話がとても良い。

娘「パパはビートルズだったの?」
ピート「そうだよ」
娘「ビートルズを辞めなかったら億万長者になれたのに」
ピート「ビートルズを辞めさせられたから、パパは今お前とここにいる。
それは億万長者になるよりも幸せなことだよ」

1988年、職業安定所の民営化につき早期退職、その後は好きだった音楽活動に専念している。

昨年のカサバ・コーヒー・クラブでの演奏をYouTubeで見て、彼は、波瀾万丈なピート・ベストという人生を生き、今、地元で好きな音楽を演奏しながら幸せな老後を迎えている、そのことに深い感銘を受けた。
そして、心の底から彼に拍手を送った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?