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小説|夏日影に消ゆる君 #12

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   十二、

 雨の日みたいに暗い気持ちを炭酸で流し込んだ。

 あのあと三階の特別展示室には何事もなかったかのように人々が戻り、夏休みの活気を取り戻した。

 休憩スペースのソファーに深く凭れながらまたひと口、喉を通る炭酸の刺激がようやく自分の体を現実に戻してくれる。
 床につけた足の感覚や手に持った缶ジュースの冷たさ、背もたれにこもった熱。それらに意識を向け、今ここにいるという感覚をひとつひとつ確かめる。

 眠りから覚めたように意識がはっきりとしてきた頃、そういえば、と詩音はポケットの中のメモを取り出した。

 特別展示室で焚かれていたあの香について、館内のショップで確認した際に店員が渡してくれたメモだった。ショップでの取り扱いはなかったが、わざわざ特別展の責任者に確認までしてくれたおかげで情報を得ることができた。

「あのお香は香瑞こうすい堂というお店で買えるそうです」

 香瑞堂は資料館から徒歩で五分ほどの距離にある老舗のお香専門店だ。
 そして、あの香は琉生夫妻が生前好んで焚いていた香だということも教えてくれた。
 きっと琉生もこの店に通っていたに違いない。

 期待していた以上の収穫に詩音は何度も感謝の言葉を伝えた。

 湊と合流したあとは、資料館の出口付近に設けられていた慰霊スペースで線香をあげて帰ってきた。

 帰りの車内は互いに言葉少なだった。
 湊もそれなりにショックを受けたであろうことが見て取れる。
 助手席の少年は先ほど詩音に買ってもらった特別展の冊子を大事そうに抱えて、信号待ちのたびにパラパラとページをめくっていた。

「酔わんか?」

 詩音が前を向いたまま少年に問いかける。

「ん? 平気」
 短く答えた少年がまだ何か言いたそうにしているので、詩音は何も言わずハンドルを握っていた。

「琉生さん、かっこいい人だったね」

 ポツリと呟いた少年の言葉に少しだけ動揺してしまった自分が恥ずかしくて、チラリと隣を見遣った。湊は特に気付いた様子もなく言葉を続ける。

「特攻隊は学校で習ったけど、飛行機が敵に突っ込むだけって思ってた。飛行機には人が乗っててその人たちには家族がいて、そんなこと考えたことなかった」

「…………」

「おれ、琉生さんの笑顔の写真がすごく好きだな」

 訓練生たちと写っていた写真のことを言っているのだろう。詩音もあの写真は特に印象に残っている。本人に聞かれたらきっと怒られるだろうが、やんちゃな少年のように無邪気な笑顔はとても可愛く思えた。だが、自分の知らない一面を見た気がして、少しだけ写真の中の訓練生に嫉妬してしまった。

 ついついあれこれ思い出して目の奥がジンと熱くなる。詩音は涙が溢れないようにハンドルを握る手に力を込めた。

「もうまあ着くき、降りる準備しちょき」

 涙で前が見えなくなってしまっては困るので、ちょっと強引に話題を変えた。
 湊は「うん」と素直に従い手に持っていた冊子やパンフレットをリュックの中にしまった。

 狭い住宅街の路地をゆっくりと進む。ナビが目的地周辺に到着したことを報せ案内を終了すると、湊は「案内の終了ちょっと早いよね」とおかしそうに笑った。

「詩音くん今日はありがとう! この本も!」

 車が止まるのを確認して、湊はドアを開けた。

「忘れもんはないかえ?」

「うん、大丈夫! 自由研究まとめたらまた連絡するね!」

「おんおん、楽しみに待ちよるよ」

「ありがとう! またね!」

 湊は車を降りて手を振り、玄関まで駆けて行ってまた振り返って手を振る。「元気やにゃあ」と口の中で小さく呟きながら詩音は車を発進させた。

 家に着いた。
 車を降りて郵便受けのチラシを引っ張り出し、玄関の鍵を開けると、ふわりと梅の香りに包まれた。
 驚いて辺りを見渡すが、当然琉生は姿を見せることはない。

(幽霊やき、明るい時間は苦手ながじゃろうか)

 冷静にそんなことを考えながら家の中に入った。
 胸の奥が、腹の底が、悲しみや切なさでぐちゃぐちゃだ。
 せめてもう一度会いたかった。

 あの日、雨の中でまた会えると言ってくれたのは、自分が無理やり言わせたからだ。だからあんなのは約束でもなんでもない。騙そうとしてついた嘘ではないのだろうけれど、最初で最後の優しい嘘は、とても残酷な響きを残した。

 居間のテーブルにチラシを置いて、しばらくぼんやりとそれらを見つめていた。今日はやけにチラシが多い。普段はドラッグストアのクーポン券などを切り分けて残しているのだが、今はなんとなくそういう気分になれない。詩音が片手だけでチラシをパラパラと適当にめくっていると、ふとチラシの間に何かが挟まっているのが見えた。

「……?」

 取り出すとそれは茶色く変色した一通の古びた封筒であることがわかった。封筒には表も裏も宛名は書かれておらず、差出人の名前も不明。封はされていたが糊付けは甘く、爪で引っ掻けば簡単に開けられた。

 中を確認すると三つ折りになった便箋が一枚入っている。詩音はそれを慎重に取り出しゆっくりと開いた。

「……ッ、ぅ、……」

 驚きのあまり思わず口元を抑えた。
 一瞬で溢れた涙の粒ががぱたぱたと畳の上に落ちる。

 琉生の文字と一目でわかった。
 資料館で目にした静かな筆跡よりも少しだけ硬い、覚悟と誠意の込められた字だ。

   只今よりきます
   愛してゐる
             琉生
   詩音へ

 会いたい。会いたかった。
 とめどなく流れる涙とともに、様々な想いがあふれ出る。
 嗚咽は徐々にしゃくりあげるような声に変わっていった。
 蹲り、肩を震わせ手紙を胸に抱きながら、詩音は声を上げて泣いた。

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