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「桜橋の男」

 いつものように隅田川沿いを散歩しよう、と家を出て桜橋に向かった。
 石段を上がり、橋を渡れば台東区だ。が、きょうは橋は渡らず、右に折れて川上の白鬚橋(しらひげばし)に行こうと思った。すると、ばったり大滝秀治(おおたきひでじ)に会った。
 初対面だった。でも、彼が出演する舞台も映画、テレビも何度も見て知っている。なんで、大滝秀治がこんなところにいる――。そんな疑問は、その時は湧かなかった。
 目で「こっちに来い」という。行かぬ手はない。
 大滝秀治の後ろについて、「X」の形をした桜橋の真ん中、その交差点になっているところに、平山郁夫原画の鶴が飛ぶレリーフがある。
 その前で、大滝秀治が僕の目をのぞき込むようにして、言う。
「あんた、欲が多いね」
「はあ、女のことですか」
「女も、金も、出世も……。まだまだほしいって。そんな顔してらぁな」
 図星だ。
「いや、もう今月で五十になりますが、どれももうダメだ、と思ってますよ」
 僕は自分の気持ちを見透かされたことに戸惑いながら、言った。
「ホントに? 本当に、あんた、そう思ってるのかい?」
「いや、本当のことを言えば、ほしい、ほしいですよ。どれもこれも。でも、ダメ……でしょうね。何も、どれももう自分に回ってくることはないと思ってますよ」
 僕は思ったとおりのことを言った。いや、本当は……その逆だ。
「ふ、くだらんっ! 煩悩だらけだな。欲を断つってことはできないの?」
「へっ、結果的には断ってる。断たざるを得ないって感じですか。へへへ」
「ふっ。そりゃ、あんたにも、青雲の志はあったろうさ。出世して、いい女と一緒になって、金も名誉もっていうような、ね。でもさ、そんなの、世間で手に入れられる人間って言ったら、一%、いや、千人に一人ってところじゃないかい?」
「そこまでは言いませんよ。僕が納得できていないのは、千にひとつどころか、百、いや十人に一人にも自分が入っていないってことが、どうしようもなくふがいない、悔しくてたまらないんです」
「あんた、会社勤めかい?」
 僕は無言でうなずいた。
「ほぉ。どうして、どうしてそうなっちゃったんだい?」
「まあ、努力不足とは思うけど、運もなかったって言うか」
「あんた、それ、運かな?」
「それって、大きくないですか」
 気がつけば、僕らはこげ茶色した橋の欄干に半身を預けながら、川下に広がる景色を見ていた。
 大滝秀治が続けた。
「人間っていうもんはさ、自分の力の及ばないところで、あれこれが決まっていく。最たるものは、命だろうな。どんなに金や力があったって、寿命だけはその人を裏切らないね。寿命の切れない人間はいない」
「はあ……」
「あんた、今まで汗かいてきた? 他の人間たちよりも、だよ……」
 すぐに言える。かいてこなかった。汗かく、頭を下げる、長い時間働くなんてバカがやることだと思っていた。もう、三十前から僕はそういう考えの中にいた。
 サラリーマンなんて、努力したところで大差はない。あくせくするだけバカを見る。
ある意味、社会も会社も、人間世界をなめていた、と今は思う。
 僕は、大滝秀治が見詰める先のビル群から川面に目を落としながら言った。
「汗、かいてないんじゃないですか。もう二十代のうちから全力疾走、全力投球しないって自分で決めたところがあるんで………」
「そんなこと、本気で言ってるの?」
「んっ。うーーん」
「自分をごまかしてるだけじゃねえかい。全力疾走しなかった? 全力投球しなかったって? うまくいかない、ときの逃げ口上だな」
「……」
 無言でいると、大滝秀治は僕の目をのぞき込むように、顔を向けてきた。
「まあ、そうだと思います」
 彼の言うことを認めざるを得ない。
「……だと思うじゃなくて、そのものだよ。甘いんだよ。あま、大甘だっ!」
 僕は大滝秀治の顔を見ることができない。川風はちょっとヘドロ臭さをまとっていた。
「そのとおりです。今更ですが、言い訳なんてできません。したところで、詮無いことですもんね」
「でもさあ、もう五十になっちゃうんだよな」
「――ええ」
「戦前、おれらが若いころには五十は人生の終着点。みんな、戦争行くんだから、そんな先があることすら考えなかったな。それに比べりゃ……」
 その先の言葉を遮って、僕は口を開いた。
「でも、秀治さんは戦争終わった時に二十歳でしょ。それから先、考え方は変えられたし……」
「まあな。おれらの同級生と言ったって、そう戦死した人間がごろごろいるわけじゃねぇよ。ま、空襲でやられたのは大勢いるけどさ」
 ああ、空襲か。この橋の目と鼻の先、言問橋の上だけでも三千人からの人が死んだと聞く。そのことを思い浮かべながら、「目の前に死ぬことが転がっているような時代に生きたからって、秀治さんの世代に、そんな立派な死生観があるわけでもないと思いますけどね」。ちょっと皮肉を込めたつもりで言った。
「へっ、言うねー。汗かかないで生きてきた男が、さ」
「実際そうでしょ。あなたがたのほんの二、三歳上の世代は本当に死んだ人が多いんだし……」
「それこそが、運だろうよ。努力じゃどうにもならなかったんだ。死から逃げようと、どれだけ努力したって、逃げおおせた人間がこれっぽっちもいやしなかった」
 ひょうひょうとした語り口が熱を帯びてきたように聞こえた。
「――はい。そうですね」と僕は同意しながら、隣に立つ彼の顔を見た。
「そういう意味ではおれは運のいい男だ、うん。実際そうだろうよ。遅咲きだけど、この世界じゃ、ちっとは成功したクチだしな」
「そうですよ。今や、みんな振り返るでしょう、街を歩いたって」
 顔をくしゃっとさせながら、力強い声が聞こえた。
「でも、売れるには努力したんだぜ!」

 僕は欄干を両手で握りながら、天を仰いだ。
「努力かぁーー」。
それが一番、自分には難しいんだよな――、そう思った瞬間。
 隣には誰もいない。
 周りを見ると、近くのスポーツセンターの弓道場帰りだろうか、背丈より高い弓を持った男女やら、犬を連れて散歩する人、自転車で家路を急ぐ高校生の姿が見えた。
「ひ、秀治さん……」。声に出したつもりだが、自分が見ていたものが何か、すぐにわかったから、その声は声にならなかった。

 僕は、近づく夕暮れに溶けるような気分になった。
 数々の舞台、映画、テレビで活躍した名優、大滝秀治の訃報に接したのは、その翌年だった。享年八十七。父と同じ、大正十四年生まれだった。



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