彼女は部屋を見るのが好きだった。新築のモデルハウスよりも、生活の匂いが残っている部屋がいい。 いくら掃除をしても、染みついた生活の匂いは残ってしまう。彼女は部屋をまわり、いろいろ想像を楽しんだ。 テーブルの周りに食べ物をこぼした跡。壁紙には画鋲の穴。天井近く、丸く残った陰は掛け時計の跡。 バス・ルームには湯気と上気した子どもの笑い声が残っているような気がする。 幸せな生活の跡と、不幸せな傷。残った痕跡は、住んでいた家族の歴史を教えてくれる。 子どもの成長、家族団ら
男女がカフェで話していた。 恋人ではないが、友達より少し親密な関係。 「俳句を始めたんだ」と彼が言った。 「俳句? どうして?」 「何か、趣味を見つけないと、と思って」 「それで、どうして俳句なの?」 「だって。スポーツは苦手だし……」 水泳はできない。ジョギングは嫌い、山登りは面倒、楽器はできない。歌はオンチ。歴史は興味がないし、絵はへたくそ。それで……。 「俳句なの?」 「一番短いし」 小説を書くのもたいへんそうで、一番短い俳句にした。 「近所に俳句のサークル
彼女は隣の声が気になった。都会は眠らない。真夜中を過ぎても街灯は消えず、車は走り続けている。ネオンは光り、孤独と空腹をコンビニで満たそうとする人がアパートの階段を下りていく。 都会は眠ろうとしない。それでも、午前一時を回ると、熟睡はしないが、うたた寝ぐらいはするようになる。 時計は午前一時を示していた。ベッドに横になると、時折、壁を通して隣の部屋から声が聞こえてきた。 若い男性、大きい声ではない。誰かに話しかけているような声、落ち着いた、柔らかい、聞いていると眠りに誘
男は病院の待合室に座っていた。休日の待合室、彼の他には、ひそひそと暗い雰囲気で話す一組の男女がいるだけだった。 男の手には競馬新聞が握られていた。競馬場へ行く途中で、病院から電話がかかってきた。妻が交通事故にあい、救急車で運び込まれたという連絡だった。 「奥さんが、ご主人に連絡してください、とおっしゃってまして」 男は妻の容態を聞いたが、電話の人間は、詳しいことは検査してからでないと言うだけだった。 病院の住所を聞き、彼は競馬場の入り口から引き返した。 競馬場から電
気がつくと、夜の十一時を回っていた。部屋には彼の他には誰も残っていなかった。 男は大きく息を吐き、窓の外に目をやった。コンピュータ画面の見過ぎなのか、人通りの絶えた路上の街灯がぼんやりと霞んで見えた。 彼は多忙だった。外資系の投資会社。先週はバンコクから上海に行き、シンガポールに二日いて、台北に飛び、商談をして、夜、東京に戻った。 先月は、半ばまでアメリカ国内を回り、顧客の要望を聞いていた。その前はロンドンからベルリン、パリ、ローマ、飛行機のマイルは貯まるが、使う時間
初夏は日が長い。六時を少し回った時間では、まだ街に陽が残り、夕暮れと呼ぶには早すぎた。 外が明るくては、お酒という気にはなれないのか、有名な芸能人がプロデュースしたというおしゃれなワインバーも、客はまばらだった。 女性が二人、窓際に席を取っていた。名前だけソムリエという肩書きのウエイターが、二人のグラスに赤ワインを満たした。 料理が数種類、テーブルに並び、二人は、「乾杯」とグラスを合わせた。ワインの香りを楽しみ、一口、口に含むと、髪の長い女性が、「やっぱり、南フランス
人形が自分を見つめていた、と書き出すのは平凡だろうか。 若者が集まる街の大通りから、一、二本奥に入った路地には、いかにも変わった店主が出てきそうな、怪しげな店が並んでいる。 アジアか中東か、南アメリカか西アフリカか。呪いの彫刻が外をにらみ、目眩がするような柄の絨毯が壁にかかり、不思議な小物、アンティークの陶器、少々癖のある香水が棚に並び、道行く人を誘っている。 彼女は二十代後半。休日に街に出てきたが、大通りは不幸を知らない若者でいっぱいで、気が滅入りそうになり、
彼は、ひどく後悔していた。 あの時、断っていれば……。 「占ってもいい?」と彼女は聞いてきた。 普通のカフェ。彼女は手にタロットカードを持っていた。彼女に言わせると、普通のタロットカードではなく、有名な占い師が使っていた、霊験あらたかなカードなのだという。ルネッサンス時代のイタリア。ノストラダムスと交流があった女性占い師。彼女は、その名前を言ったが、長すぎて彼は覚えられなかった。 きっと、渋谷の裏通りで買ったのだろう、と彼は思った。水晶玉やカラスの目玉が並んでいる店
ここだけの秘密ですが、春は少し恥ずかしがり屋さんなのです。 雪の季節が終わり、冷たい北風にかわって、おだやかな南風が暖かさを運んでくるようになると、春は空からおりて来て、冬とこうたいします。 冬は気むずかし屋のおこりん坊で、春がちょっと早くおりていくと、 「まだ、お前の季節じゃないぞ、帰れ帰れ」 と、おこって、雪まじりの冷たい息を吹きかけて、春を空に追い返してしまいます。 冬の季節、春が空から下をのぞいてみると、子どもたちは、歓声をあげながら、スキーやスケートを楽しんで
ある日の事でございます。おしゃか様は、極楽の蓮池のふちを、ひとりでぶらぶら歩いていました。おしゃか様は蓮池のふちにたたずんで、蓮の葉の間から、下のようすを御覧になりました。極楽の蓮池の下は、丁度、地獄の底に当っていて、水を透して、さんずの川や針の山の景色をはっきりと見ることができました。 実は、おしゃか様は、地獄をのぞくのが、ただ一つの楽しみでした。罪人たちが、針の山で倒れ、顔に針が刺さる様子や、血の池でおぼれている姿を毎日、こっそり見ては楽しんでいました。 血の池に、
彼女は悩んでいた。 デートに誘われた。今週、金曜日の夜。明後日だ。 「一緒に食事を」 誘われたのは、会計事務所の人。彼女は、その事務所で月曜日と火曜日にアルバイトをしていた。 仕事は三つ掛け持ちしている。会計事務所と車の販売、それにスポーツジム。 月曜日と火曜日は眼鏡をかけ、地味なスーツ姿で、静かにパソコンのキーボードを打っている。 水曜日は、明るい良く気のつくOL。素敵な笑顔で愛想が良い。 「車をお探しですか? お飲み物はいかがですか?」 金曜日は、元気なジ
不思議な話が静かに広まっている。都市伝説。 誰にも気づかれずに人が消えて行く。 公園のベンチ。私の後ろで、小学生が二人、話していた。 「昨日見たんだ」 「あれ?」 「そう」 「どこで?」 「この公園。ここのベンチに座ってた。高校生かな 女の人」 「消えちゃたの?」 「消えちゃった。フッて、魔法みたいに」 「見間違いじゃなくて?」 「ほんと。女の人の体が何だか透けて見える気がして、じっと見てたら、急に風が吹いて、噴水の水が霧みたいになって、その人を包んだと思ったら……」
場所はニューヨークの外れ。誰も気がつかないような小さな画廊で、若い画家の個展が開かれていた。 壁にツタの這う、苔むした煉瓦造りの古いビルだった。画廊の中に客は数人いるだけ。 画廊の女主人は閑散とした会場を眺め、ため息をついた。 二十点ほどの絵が壁に掛かっていた。 強風にさらされた荒涼とした岩場、ニューヨークのおだやかな雰囲気の秋の昼下がり、夕日に照らされた砂漠を行くラクダに揺られる人の列。ヨーロッパ、クリスマス市の華やかな雑踏、などなど季節も場所もさまざまなのだが、