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10.ある後悔

 男は病院の待合室に座っていた。休日の待合室、彼の他には、ひそひそと暗い雰囲気で話す一組の男女がいるだけだった。
 男の手には競馬新聞が握られていた。競馬場へ行く途中で、病院から電話がかかってきた。妻が交通事故にあい、救急車で運び込まれたという連絡だった。
「奥さんが、ご主人に連絡してください、とおっしゃってまして」
 男は妻の容態を聞いたが、電話の人間は、詳しいことは検査してからでないと言うだけだった。
 病院の住所を聞き、彼は競馬場の入り口から引き返した。
 競馬場から電車の駅に向かうバスを待ちながら、嫌な考えが浮かび、彼は寒気を感じた。 こんなとき、人はたいてい、最悪の結果を考えてしまうものだ。
 空を見上げると、鼻の奥がツンとし、涙が出そうになった。
 薄曇りの雲の中、妻の笑顔が浮かんできた。十五年前、付き合いだしたころの笑顔だった。会社の近く、行きつけの定食屋で元気よく働いていた、健康そうな赤い頬が印象的だった。小太りで、決して美人とは言えないのだが、人当たりの良い、見ていると気持ちが柔らかくなる笑顔をしていた。
 十五年たち、顔にシミや小皺が増えた。首の周りにぜい肉がつき、二重顎になったが、思い浮かべた顔には、シワもシミも二重顎もなかった。
 今、妻との間は冷え切っていた。会話もほとんどなく、妻と同じ部屋にいるのもわずらわしかった。
 時折、声をかけてみるのだが、話しかけても気のない返事ばかりされると、もういい、という気分になってしまう。
 憎むほど嫌っているわけではないが、愛しているとは、とても言えない。これといった決定的な理由は思い浮かばないのだが、一日一日、日めくりカレンダーのように、少しずつ心が離れていった。多分、これを倦怠期と言うのだろう。
 休日、妻は居間でテレビを見ていた。男は、家にいるのが息苦しくて、外に出るようになった。喫茶店や映画館、公園、図書館とさまざま場所を試したが、近頃は競馬場に落ち着いていた。
 電車とバスを乗り継ぎ競馬場に着く。競馬新聞を開き、その日のレースを確認する。赤鉛筆を取り出し、数レース予想し、馬券を買う。当たれば、もう数レース楽しむ。外れたら、後はただ競馬場でボーッと時間をつぶしていた。
 華やかなようで、どこか物寂しい。人生を悟ったような捨てたような目をした人々が駆け抜けていく馬を見ていた。
「今夜がヤマだって……」
「連絡しないと……」
 親の病状なのか、待合室の男女が重い話をしていた。

 事故現場は駅前の交差点で、自転車に乗った妻に左折してきたトラックがぶつかったらしい。朝、チラシを見ていたから、スーパーに行く途中だったのだろう。
 チラシで特売品をチェックし、自転車で駅前のスーパーに向かった。
 交差点、信号が点滅する。急いで渡ろうとスピードを上げる。トラックが左折してくる。トラックは自転車に気が付かない。
「あっ」と気づいたときには、トラックは目の前だ。
 衝突。トラックにはねられ、妻はアスファルトに叩きつけられた。
 体が震え、男は小さ首を振った。消毒の匂いを感じながら硬い椅子に座っていると、悪い考えばかりが浮かんでくる。
 自分が競馬をしているとき、彼女は買い物に行っていた。二人で暮らし始めた頃は、一緒に買い物に出かけ、台所に立って料理をしていたこともあった。
 今は、仕事を言い訳をして、家事は妻に放り投げている。仕事は確かに忙しい、業績が上がらず、仕事の量は増えても給料は増えない。しかし、忙しいと言っても、死ぬほど辛いわけではない。居酒屋で安酒を飲み、カラオケで歌ったり、と適当に息抜きをしている。
 妻は介護の仕事をしていた。夜勤もある。疲れているのは自分だけではない。彼女は彼女で、言いたい文句もあるはずだ。これからは、もう少し妻のことを考えよう。優しく声をかけ、二人の時間を作ろう。ケガが治ったら温泉にでも行こうか、と男は思った。

 妻は、気がつくと、ベッドの上にいた。鎮痛剤が効いているのか、それほど痛みは感じなかった。
 トラックが目の前に大写しになったとき、浮かんできたのは、夫の顔だった。ぼんやりと意識が戻ったとき、やはり初めに浮かんだのは、夫の顔だった。
 夫との関係はギクシャクしていた。近頃は、会話らしい会話もほとんど交わしていない。
 休日、彼は、朝から競馬新聞を持って、家を出て行く。行く先は告げないが、隣の市にある競馬場に通っているらしい。
 夫が競馬に行くのは、自分にも少しは責任がある。何となく話をするのが面倒で、話しかけられても無視してしまう。
 結婚前は、優しいと思えた性格が、優柔不断で我慢できないときがある。いつもみせる弱々しい愛想笑いは、優しいのではなく小心なだけ。クチャクチャと音を立てて食べ、猫背でかかとを引きずるように歩き、無意識で髪の毛をいじる。気になり出すと夫の仕草、一つ一つが嫌になってくる。
 それでも、浮気をするわけでもなく。怒鳴るわけでも暴力を振るうわけでもない。浮気、借金、ギャンブル、アル中。悲惨な話はいくらでも聞く。少し会話がないぐらい、文句を言ってはバチが当たる。
 これからは、夫の話にも耳を傾けよう。この事故もきっと、神様が何か気づきなさいと言っているのだろう、と彼女は思った。

「気がつかれましたよ」
 看護師が近づき、男に声をかけた。
「だいじょうぶそうですよ」
「そうですか」
 男は椅子から立ち上がり、病室に向かった。
 男が病室のドアを開け、ベッドに近づいていった。
 妻が顔を向ける。初め彼女の目に映ったのは、夫の手に握られた、赤鉛筆で何やら書かれた競馬新聞だった。
「また馬なの」
 考えるより先に声が出た。
「チッ」と男には妻の舌打ちが聞こえたような気がした。
 男は立ち止まり、
「元気そうだな」と言うと、踵を返した。

 男は電車に乗っていた。看護師によれば、検査結果に異常がなければ、妻は、今日にも家に戻れるという話だった。
 男は腕時計を見た。競馬場に着く前に、レースは、ほとんど終わってしまう。まあ、それでも、最後の二レースぐらいは楽しめそうだった。
 彼は、自分が買うはずだった五つのレースの結果をスマートフォンで確認した。
「あっ」と思わず声が出た。珍しいことに、どのレースも、予想した通りの馬が勝っていた。
 こんなことなら……。
 彼はひどく後悔した。病院に向かう前に、馬券だけでも買っておけばよかった。なにしろ、彼は、これまで一日で二レース以上勝ったことがなかったのだから。

ある後悔

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