見出し画像

ラーヌン


「らーぬんでも食べましょう」


「え?ラーメンですか、ああ、いいですね」


「いや、ラーメンではありません、ラーヌンです」


そう言うとするりと砂利敷の路地裏に入り、こちらに手招きをした


見れば昭和の残り香のする普通の民家であった


しかしながらその昔ながらのガラス張りの引き戸の周りにはこれでもかとハローキティ関連のグッズがまとわりついており、しかもそれらの全てが煤で黒ずんでいるようだった


足元には縦横無尽に伸び散らかした何らかのピンクがかった多肉植物が宇宙生物のように、端々にヒビが入った水色のタイルを蹂躙している


私は一瞬その異様さにたじろいだが、彼はそのままガラリと引き戸を開けて中に入ってしまった


慌てて私が彼に続くと、その途端にいかにチェーンの飲食店がその店内環境の向上に尽力をしているかということを図らずして痛感させられた


というのも、カウンター式の机から黒いタイルの床、果ては水色の撥水クロスが貼られた壁までもがぎとぎと脂ぎっているのである


しかも何らかの有機的成分を含んだ生ぬるくしかも湿度の高い空気が充満していた


触るまでもなくべとついた壁には所狭しと、80年代の青少年がもれなく憧れたであろう数々のミュージシャンのレコードジャケットが貼り付けてある、もちろんそれらを申し訳程度に覆っているビニールもなんとなくぬめついている


カウンターの向こうの壁にも、コレクター垂涎必至と思われるホビーと呼ばれる類の古ぼけた海外のオモチャなどが無造作に飾られている


水色の壁がいやに明るく蛍光灯を反射して、まるでホームセンターにある熱帯魚の水槽の中に入ってしまった様だ


彼は愕然とする私には目もくれず慣れた手つきで埃まみれの給水器からビンテージものと思われるコカ・コーラの刻印の入ったガラスコップになみなみと水を注ぐと、何か鋭利なもので切り裂いたように布が裂けて中綿が飛び出した赤い布張りのスツールに腰掛けた


彼はそのまま私がいることもぽかんと忘れてしまったように胸ポケットからひしゃげたタバコを出してすぐさま火をつけ到底人間の肺活量とは思えない勢いで吸い込むと物凄い量の煙を一気に吐き出した


あっけに取られた私がせめて追いつこうと彼の隣に座ると、彼は再び大きくタバコをふかした


すると、8席ほどしかない店内はあっという間に煙で満たされ、その煙が天井に達した途端、左耳から右耳まで一気に細い棒を突き通されたような不快な高音と共にシャワー状の水が吹き出してきた


火災報知器が作動してしまった事を理解した私が慌てて立ち上がろうとすると、カウンターの中の暗がりからゆらりと立ち上がる影があり、こちらに向かってきて無言のまま何がしかの装置を触ってすぐさまにブザーとスプリンクラーの作動を止めた


するとこの店の店主と思われる人影は元の暗がりに引っ込み、ただでさえ席数の少ないカウンターをこれでもかと占領し机上に熱帯雨林を形成していたなんだかよく分からないが濃い緑でテカテカした大きな葉の観葉植物の群れの陰に消えてしまった


スコール的スプリンクラーのせいで胸あたりまでしっとりしてしまった私が、やっとの思いで喉を絞り上げて彼に説明を求めようとすると、用意周到にスプリンクラーが発動する直前にどこからか取り出したビニール傘で濡れるのを回避していた彼は私に水を進めながら


「301」


とぶっきらぼうに小ジャングルの奥地の店主に発した


するとガサガサと重なり合った葉が揺れ動き、しばらくすると大量の蒸気が店主がいるであろう店の奥から立ち上り始めた


店内の湿度と温度はたちどころに上昇し、空間の不快指数はその瞬間、真夏の古い市民プールの更衣室を軽く凌駕した


その湯気はほんのりとダシのような芳香をはらんでおり、私はこの異常な時の止まった水槽的空間の中でやっと理解出来る現象に出会って反射的に安堵した


しばらくすると湯気も引いて、店内には静寂が戻った


私がペットショップから連れてこられてやっと新しい住処を与えられたハムスターのような心持ちで恐る恐る勧められた水をちびちび飲んでいると、先程の人影が今度はハッキリとしたディティールを持って白い蛍光灯の下にやってきた


一体どんな怪人物であろうかと私が恐る恐る目をあげると、そこに居たのは以外にも、いやにこの空間に馴染んでいたとはいえ、普通の中年男性であった


年齢を象徴するような金縁でセミオートと呼ばれるようなタイプのメガネの奥にはやや垂れ下がったシワの多い目が無感情に存在しており、口元はキリッと結ばれている


いわゆる無口で頑固の偏屈オヤジといった感じだが、それにしてもこのへんてこな店内との親和性が取れすぎているのは頭に巻いた白いボロタオルと擦り切れたロックバンドのプリントTシャツのせいだろうか


店主は無言で両手にむんずと掴んだラーメンどんぶりをやや乱暴に我々の前に置いた


私はその勢いに少し怯んだが、隣の彼はここまでの展開になんの疑問もなさそうにそのどんぶりを受け取った


このままではこちらが取って食われるのではないかという妄想に取り憑かれた私は慌てて彼にならってどんぶりを受け取り、その中を覗き込んだ


ラーメンだと思った


しかしながら、ラーメンではなかった
たしかに、麺やスープ、トッピングの煮卵はそこにあった


しかしそれらの上に、濁った薄膜が存在している
手に取ってどんぶりをゆすってもスープがこぼれることがない


おそるおそる渡されたレンゲで「ラーメン」をつついてみると、弾力がある


まさかと思いそのままえいとレンゲを突き刺してみた


私はその感触を知っていた


ゼリーであった、煮凝りであった


つまりこれはラーメンの煮凝りであったのだ


「あ、あの、これは・・・・・・」


思わず私が尋ねると隣で黙々と食事を続けていた彼は何の気はなしに


「ラーヌンですよ」


とこちらに一瞥をくれることも無く答えた


どっと汗が出た


「食べないんですか、もしかしてお腹いっぱいでしたか?」


という彼の声で我に返り、はっと目線を正面に戻すと、カウンターの向かいに座り込んでスポーツ紙を読んでいた店主と紙面の隙間から目が合った


さらに汗が吹きでた

とりあえず食べねばならぬと私の脳が電気信号を発し、それを受け取った右手が「ラーヌン」を掬いとって私の口に放り込んだ


醤油味だった



気がつくと店の外にいた。辺りは薄青く沈んでおり、もう数十分のうちに日が暮れてしまうようだ


あまりの衝撃と訳の分からなさから自分の生存本能が誤作動し、必死のうちにラーヌンを平らげて店を出たらしい


「気に入ってくれたようでよかった」


相変わらずプカプカとタバコをくゆらせていた彼が財布を仕舞いながら言った。支払いを済ませてくれたらしい


「は・・・あの、ご馳走様です」


「では今日はこの辺で解散にしましょう、また」


と言うと彼はまた砂利道を踏み鳴らして去っていった


呆然としたまま取り残された私は、とりあえず、祈るような思いで背後の店を振り返って見た


ありがたいことに、すでに店じまいしたらしく明かりは消えていたものの、ラーヌン店はそこにしっかりと実体を持って存在していた






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?