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2歳の息子と少しだけ離れて気づいた、私にとってのおいしい食事

「ママ、きょうごはんのかぎ、ある?」

保育園の帰り道、私の顔を見るにはまだ頭を直角に近いくらい傾けなければならない身長で、日課のように息子が聞いてくる。

「ごはんのかぎ」というのは、半年ほど前から利用している食材宅配サービスの、不在時の預かりボックスを開ける鍵のことだ。平日は時短だが仕事をしているので、玄関で荷物を受け取ることができない。毎日家の前に担当さんが置いてくれるこのボックスの中身が、我が家の今日の夕ご飯。

献立が決まっていて、材料が入っていて、しかも野菜は切ってある。あとは簡単な説明書きを読みながら内容に沿って作るだけ。あらかじめご飯を炊くことさえ忘れなければ、20分でできる。
献立決め時間短縮、さっとできる調理、生ごみの少なさ、片付けの楽さ。時短たんたんたん、だ。
しかも美味しい。栄養士さんが考えてくれているようなので、家族にも罪悪感がないこのサービスは大助かりだ。

周りに迷惑をかけられない仕事と、自分なりに愛情をかけた育児。これで私の生活の9割占められているのではないだろうか。ぎりぎりの隙間に、健康に暮らしていくために必要な家事をかきこむ。そこにはもう、「手間暇をかけた料理」は入り込めない。

そんな毎日のリズムに、少しだけ変化が起きたある日のこと。

基本的にいつも忙しい仕事だけれども、本当に少しだけ、嵐の前の静けさのような閑散期がある。
定時上がり。ゴリゴリの体を休めることができる貴重な時期。
それだったら普段できない家事をしよう、となる人も多いと思うが、のろけではないが私の夫はイクメンかつ中々の愛妻家なので(書いていて恥ずかしくなってきた)こんな時しか休めないだろうからゆっくりしなよと、息子を自分の実家に連れて行って私の一人時間を作ってくれることがしばしばある。それだけで涙が出るほど嬉しいのだが、そこに嬉しい追い打ちをかけてくれるのが、義母がタッパに敷き詰めてくれる、手作りおかずのお土産。

口に入れると、「あ、これはお鍋でいつもとっているだしを使って作ってくれたんだろうな。」とか「これはこんなにたくさんの食材を、全て皮むきから細かく切るところまで丁寧にやってくれたんだろうな」とか、台所で見かける情景が噛みしめるたびに浮かんでくる。

ゆっくり噛んでいるから、頭の(いや心の?)普段使っていない部分が動いたのだろうか。
「あぁ、食事ってこんな楽しみ方もあったよね」と、ふと浮かんできた。
自分が作っていないし、マイペースに食べているから、この食事には「時間」という概念は全く入ってこない。レンジで温めた物理的なものではない、暖かさがゆっくりとお腹に入っていく。忘れていたことも忘れていた感覚だった。

いつの間にか、私の中で食事は勝負事になっていた気がする。

帰宅してから子どもを寝付かせたい時間までに、いかに楽に準備ができるか、スムーズに子どもが食べてくれるか、片付けが楽か。結果どれだけ「時短」になったか。よし、これでお風呂に早く入れられるし、このペースなら洗濯物を畳む時間もできたんじゃないか。
限られた時間というコースの中の一部が食事、いかにそれぞれのラップタイムを縮めて通過できるか。
いかに削って、他のことに時間を割けるか。寝かしつけというゴールテープを切って、ボーナスタイムを得られるか。
いつからか食事は「食べたいものを美味しいと噛みしめること」「一日を振り返りながらほっとする時間」とは違うものになっていた。

仕事は嫌いではないし、私は「日々の暮らしを丁寧に」をモットーとするような素敵な奥さんではないけれども、レースをお休みできる日は、コースを散歩道にしよう。家族はどんな道(献立)が好きかに思いを巡らせながら、自分で食材を買いに行く日があってもいい。
週末はほんの少しだけゆったりと、前に家族が美味しいと言ってくれたメニューにしようと思う。

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