見出し画像

届いたテープ

(平成五年八月)

 A氏が放送大学のふたつの専門科目をビデオ・テ ーブに収録して届けてくれた。テープの背にはワープロでプリントしたらしい内容を示すラベルが貼ってあり、おそらく想像するに彼の自室は乱雑この上ないと思われるが、そういうことについてはきちんとしている彼の性格が現れているものである。
 「脳と行動」と「文化人類学」の二科目で、 わたしはてっきり「分子生物学」を撮ってくれているとばかり思っていたのは間違いだった。別に試験を受けるわけではないのでいっこうにかまわないが、また、脳と人間の行動の関連についてはわたしもおおいに関心があるからこれでいいと思った。おそらく「概念のフィルター」について、 わたしがとくに関心を持っていると彼は思ったに違いない。
 「文化人類学」のほうは彼が「きっとおもしろいと思うと思う」からと勧めてくれたのである。非常に広範囲にわたる学問であるので、15回くらいの講義でオールオーバーできるとは考えられない。 少なくとも、わたしが「この方面がおもしろい」と思ってもっと知りたいという欲求を満してくれるものとは期待できない。
 一時間目だけを見たが、見終わってわたしが最初に感じたのは「わたしは人間に生まれてきてほんとうに幸いだった」という感想である。もしゴキブリや実験用のウサギだったらどうだろう。とくに「脳と行動」では脳が生きている人間を実験に使うことができないので、さまざまな小動物が使われる。そういう場面を見ているとなにかもったいないような気になる。ひとつどこかで間違えば、わたしは人間によって実験に使われたマウスだったかも知れないし、そこまで消耗品のように使われなくも、今うちにいるネコのような存在であったかも知れない。
 人間として今ここに生きてこのビデオを見ることができるということは、ほとんど奇跡のようなものではないか。ひとりの人間に百億もあるといわれている脳細胞と、それにつながっている神経が、何ひとつ狂いなく働くということが奇跡でなくてなんであろか。それだけでなくわたしにはわたしという個性があり、ほかの誰とも全く異なったものを固有できるということは奇跡からさらに進んだ僥倖とも言える。これから考えを延長すると、世の中にとって益をなさない、むしろ悪をなすその人間さえも、生きているということは、奇跡の一端に加えられてるということになる。
 まだほんの初めの部分を見ただけであるので、この先どのような新しい知識をわたしにもたらしてくれるかたいへん楽しみであるが、 わたしのこの感想は、おそらく最も底辺にありながら欠くことのできない、また人間としてもっていなくてはならない自覚であるように思う。
 A氏は、これらの講義をわたしのようにただ見るだけではなく専修科目としてとっているので、放送の始まる前には予習、終わってからは必ず復習をしなければとても追いついてはいけないと言っていた。つまり遊び半分では単位はとれないということである。 何かの資格を取るための勉強のほかに放送大学で勉強し、さらにそのほかにパソコン・ソフトの勉強までしている彼は、わたしなど足もとにも及ばない努力家であることがわかる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?