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金縛り

 このことばについて、何か新しい定義づけても見つかるかと思って、図書館へ足を運んだが、背が十センチ程の幅をもつ辞書にようやく五行くらい。「鎖などで身動きできないように縛ること。 金銭的に不自由にすること。ーの法として、修験者の行う秘法で、不動明王の威力によって相手を身動きできないようにする法」と載っているくらいで、そのほかに何かもっと科学的な説明してある本はないかと心理学の書棚をくまなくみたが、夢や占いの本はあっても金縛りについて説明されている ものは皆無であった。むしろ仏教用語の関係の方からあたるほうが賢明かも知れない。
 わたしは過去、少なくとも数十回、この現象に遭遇し、そのたびに恐ろしい思いをしている。人に話すと、それは夢だよ、のひとことでかたづけられてしまうが、金縛りは夢とは似て非なるもので、このことは同じ経験のある人が最もよくわかってくれると思う。
 文字通り何か強い力で縛られたかのような状態になって、はっきり目覚めてはいないが、かといってまるきり眠っているのでもない。 少し医学的にいうならば、レム睡眠の状態のときにこの現象が訪れる。いや、訪れるなどというものやわらかな表現ははずれている。 むしろ襲ってくる、という言い方のほうが適切である。
 わたしの場合には何か人間ではない、得体の知れない生き物がわたしのそばにいて、何か尋常ではない力をもってわたしを縛る。もっとはっきり目をあけてそのものの正体を見極めようとするのだが、まぶたは重く、まるで糊づけでもされたかのように開かない。生き物は全身に硬い長い毛の生えた、吐く息も荒々しいものであったり、虎でもライオンでもなく、もっとどう猛な大型の獣で、その体から何ともいえないいやな臭いを発散していたり、(これがふすま一枚隔てた部屋の中ぐるぐる歩き回っていた)また、時には鳥に人間の首をすげ変えたような不気味な生き物であったりする。
 目があかないのに、どうしてそれらの生き物の形やようすがわかるのか、と聞かれると返事に困る。何と説明すればよいのだろう。 確かにわたしは起きてはいないし、ふだんのわたしとは違っている。つまり完全に目が覚め て、毎日そうするように仕入れに行ったり、人と話したり電話を受けたり、またかけたり、とにかくふつうの意識の下で何のさしさわりもなく生きているわたしとは全く違うわたしがそこにいる。そしてまた完全に眠っているわけでも断じてない。半分は起きていて、あとの半分の半分は自分でもまだ寝ているのかなあ、という意識があり、残りの四半分は自律神経に関する限り完全に眠らされている。
 いったい自分の身体のどの部分が起きていて、どの部分が起きていないのかさっぱりわからないのだが、だれもいないはずの部屋に何か、あるいはだれかが確かに存在することが、いやという程感じられるのにもかかわらず、 確かめたり触れたりすることはできない。そうしたいと思っても手足はいうに及ばず、 頭を動かすことも声を出すこともままにならない。そしてその分だけ五感のみならず、第六感までも動員してわたしは得体の知れない何者か に必死で立ち向かおうとする。そういう気力が充分にあるのだが、なにしろ身体がいうことをきかない。
 先に述べた鳥のようなものが現れたときのことは、特に印象に深い。
七、八年も前になるが、ある夏の明け方のことである。 サッシュをとおしてあたりがもうだいぶ明るくなっていた。突然耳鳴りがして異常な感覚に陥った。私の寝ている布団の周りを何か鳥のようなものが、チョンチョンと跳んでいる。もっとよく見ようと目を開こうとするが、まぶたになにか接着剤でも塗られたようで開かない。あ、今ちょうど足もとのへんにいる、とはっきりわかるのだが起上がることもできない。そのうち時計回りにまわっていたその鳥のようなものが、ついにわたしの枕元まで来てしまった。手をのばせばめそうなところにいる生き物は、 実は次元の異なる世界のものであるかのようにひどく遠い。それがわたしのからだのまわりに張ってあったバリアーを破って、わたしの額にチョコンとくちばしを押しつけた。わたしの恐怖は頂点に達して、声にならない声を発することで急にもとのなんでもない、ふつうのわたしにもどることができた。タイムトラベルから帰ってきた経験などあろうはずがないが、もしそういう人にあえたら、そのときの感情を聞いてみたい。必ず同じような心持ちであろうと思う。
 また一度、寝たままの姿勢でわたしの身体がふとんから三十センチばかり浮きあがり、わたしは動けず一分くらいでまたていねいにそっと下ろされた。マジックでも何でもなくこんな非物理的なことが起こるのが金縛りの世界である。
 女学生に圧倒的な人気のあるスヌーピーの漫画に出てくるウッドストックというキャラクターがある。例えばあのウッドストックに、年輩の少し老かいな感じのする男の顔を持つ首をすげかえるとすると、ゾッとすること甚だしいということになりはしないだろうか。わたしのひたいにそのくちばしで何かの烙印を押したのは、実にこういう鳥であった。

(平成元年二月)

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