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安達原考

(平成三年九月)

紀伊国(今の和歌山県)那智、東光坊(とうこうぼう)の修験者、阿闍梨祐慶(あじゃりゆうけい)は、同行の山伏らと共に、諸国を巡る修行の旅を続けていました。ある日、陸奥(みちのく)に辿り着いた一行は、人里離れた安達原(今の福島県安達太良山麓)夕暮れを迎えてしまいます。そこに一軒だけあったあばら家を訪ねたところ、相応に年齢を重ねたと見える、女の一人住まいでした。祐慶たちは、女に一夜の宿を頼みますが、あまりにもみすぼらしいから、といったん断られます。あてのない一行は重ねて頼み込み、何とか泊めてもらうことになりました。

家の中で祐慶は、見慣れない道具を見つけ、女に尋ねます。すると女は、枠桛輪(わくかせわ)という糸繰りの道具であり、自分のような賎しい身分の者が取り扱うのであると答え、祐慶の求めに応じて糸繰りの様子を見せます。女は、辛い浮き世の業から離れられない我が身を嘆き、儚い世をしみじみ語ります。夜も更け、女は夜寒をしのぐために薪を取りに行くと祐慶に告げ、留守中に決して自分の寝室を覗かないようにと念押しして出ていきます。

ところが祐慶の従者のひとりは我慢できず、祐慶に戒められながらも、とうとう女の部屋を覗いてしまいます。すると、そこにはおびただしい数の死骸が山のように積まれているではありませんか。女は、安達原の黒塚に住むと噂にのぼっていた鬼でした。

慌てて逃げ出す祐慶たちに、鬼に変身した女が、秘密を暴かれた怒りに燃えて追いかけ、取って食らおうとします。しかし祐慶たちが、力を振り絞って祈り伏せると、鬼女は弱り果て、夜嵐の音に紛れるように姿を消しました。

能 安達原

 謡曲「安達原」は、観世流ではこの題でとおっているが、ほかの流儀では「黒塚」と呼ばれている。 
 出かけている間に部屋をのぞいちゃダメ、 と言われれば誰でものぞきたくなるもの、この話でなくとも鶴の恩返しでも、海彦の奥さんになったトヨタマビメも、またイザナミノ ミコトも、冥界に行ってオルフェウスに連れもどされるユーリディケもみんな「見てはいけない」と女は言う。こぞって女というのに意味がある。
 見るなと言われれば見たくなるのを先に読んでそう言っているのではないかとさえ思う。 つまり、そう言えば男は(単純だから)逆の行動を起こして自分の身の破滅を招くのを、もしかして願っていたのかも知れない。女は行動を起こして自分の身の破滅を招くのを、もしかして願っていたのかも知れない。女は魔物といわれる所以がそこにある。
 年をとって鬼になってしまったが、 安達原の女も「若いころには京都の五条あたりに住んで、ちょっとしたもんだったのよ」とふたりの男にほのめかす。男は目の前にいるのが若い女でもない限り、少なくとも女を卒業しない年の女でもない限りは一歩も二歩も間をおく。オバサンほど手に負えないものはないと心得ているからである。 いくら昔美人だったと聞いても過ぎた時間はもどらない。 女も男もこの点ではまったくどうしようもないのである。
 自分でさえいやだと思うようなこんな家に泊めてくれと言われて、女は承知するが「浅ましや人界に生を受けながら…」のくだりで暗に自分が人食いであることを知らせている。 いきなり人食いに変じるのではなく、予めそれとなく知らせておいて(それを察するかどうかは相手次第ではあるが)まず第一の警告を発する。
 次に「留守の間に部屋を見ないように」とこんどははっきり表むきの警告を出しておいて、それを守ることのできない男どもに正体を見せる。
 しかし、心底では自分の姿はなんと浅ましいのだとよく承知している。このあたり自分の姿とオーバーラップして胸が痛む。最後に勝利をおさめるのは女でも男でもなく死であるからである。恐ろしさに逃げ出した山伏ふたりは辛うじて命拾いをしたが、決して力や知恵で鬼に勝ったわけではない。こんなことになるんなら、あの部屋をのぞくんじゃなかったと、予め受けた警告を無視したことを悔みながら、たまたまお経に深くかかわった身分であったからとっさにお経をあげて助かる。
 人間の力には限界があり、限界を越えられるのは人を超えたものの力のみである。
 木を採りに行く前にシテ (鬼)の独り言は、無駄に長生きしてしまったと、今もどこにでもいそうなお婆さんの繰りごとである。かけことばを使い、聞く者の耳に快い音になっているが、文字に表されたもので見ても美しい。安達原に限らず、謡曲にはかけことばは随所に駆使されている。また日本の古典だけではなく中国の文献、お経などの知識もないと理解が届かない。「咸陽宮の煙紛々たり」 の咸陽宮は楚の項羽によって焼きおとされた 秦の都の建物である。お経の方の出典はわたしにはわからないが、非常にうがった見方をするならば、これを能舞台で謡うことによって、観客の心を鎮める効果を作者は狙ったのではないかと思う。
 五感の中で訴求効果の最もたかいのは視覚であるが、ある程度時間をかけて人の心の中に侵入できるのは音とかリズム(振動)で、これは本能にゆさぶりをかける働きをする。身近かな例は子守歌、もっと駆け離れたものならば突撃ラッパ。
 世阿弥はもしかしてブレヒトより600年も前に、演劇の「異化作用」について知っていたのかも知れない。


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