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忘れかけていた過去

(平成四年九月)
 
 ぐっすり寝入っているところへ電話の音。すぐに目が覚めるのは、やはり「思いがけないこと」を予想しているからか、それとも年のせいで実際には熟睡していないからか、そんなことを二、三度鳴ったコール音のあと飛び起きて電話のある部屋まで走っていく間に考える。 受話器を取る寸前に頭にあるのは、 これを取って流れて来る声が姑のところにこの一年半寝泊りしている夫のものではないかということだけにしぼられている。姑に何か急変でも起きたか。
 「はい」と暗闇に向かって答える。ビデオ・デッキの時刻表示の緑色の文字が点滅している。
 「あの、イマイさんのお宅ですか」とごく若い女の声。若いも若い、中学生か、せいぜい高校生の声である。わたしはほっとすると同時にあきれ果てる。
 「まあ、あなたいったい何時だと思って間違い電話なんか…」とついそう言う。相手の女の子は、「あ、すいません。ごめんなさい。」 と言って電話を切った。安心した分の二乗くらいの、こんどは腹立たしさがこみあげてくる。
 ベッドへもどって時計を見ると三時四十五分。イマイさんはこの時間に電話がかかってきてもとくに驚きもしない人種に違いないし、間違ってうちに電話をかけた女の子も、この時間はわたしたちふつうの生活のペースを守っている人間とは違うペースに乗っているのであろう。わたしの声も決してネボケてはいなかったはずであるが、それ以上に相手の女の子の声は起きていた。わたしは自分の対応がここまでしかできないのが悔しく、世の中に電話などという見えざる暴力のあることを恨めしく思う。

 もう四、五年も前になるが、一時うちにいたずら電話が決まって夜中の一時過ぎにかかってきたことがあって、そのときには下の娘が家にいることがもとになっているということがわかった。まだ高校生だった娘に目をつけたらしい近くの工場に働いている男が、夜勤のときに娘が電話に出ることを期待してかけて来るのであった。わたしが出ると無言のままオルゴールが鳴り出し、それはグリーン・スリーブスのメロディであったが、後で確めてみると、その工場の電話は同じメロディであった。 
 電話では飽きたらず、その男はついにある日の明けがた、娘の部屋の外へしのんで来た。いくらか肌寒くなり始めたころだったと思う。外はうす明るくなっていた。娘が寝ていたわたしを最初に起こしに来た。
「お母さん、だれか外にいるの。サッシを開けようとしてガタガタやってる」ということばに飛び起きて部屋に行ってみると、ずんぐりとしたからだつきの男の姿がレースのカーテンを通して見える。もし鍵がかかっていなければ男は難なく中に入れたろうし、したがって娘もただではすまなかったであろう。そのただではすまないことが今にも起こりそうな気がして急に恐怖が本物に変わるような心もちであった。
 まず夫を起こして事情を話し、このチカン男捕獲作戦を実行することに話をまとめた。さいわいなことに外の男はわたしたちがまだ何も気づいていないと思っているらしく、いっこうに立ち去らないばかりか、なんとかしてサッシを開けようと努力していた。わたしと娘は玄関にひそみ、夫が娘の部屋のサッシを不意に開けて驚かせ、あわてて逃げるところをわたしたちふたりで阻止しようという作戦であった。娘はいつのまにか傘立てにあった柄の長いコウモリを手にしていた。降ってわいたような冒険に胸がドキドキしていた。
 「なにやってんだ!」 夫の一喝が聞こえて、逃げ出す足音が続く。ドアの近くにいた娘が今だとばかりに外にむかって戸を開け、まさに目の前を駆け抜けようとした男を阻もうとしたが、着ているものを少しかすっただけで逃げられてしまった。
 夫もなんとか捕まえようとしたが、若い男の足には及ばない。わたしはすぐ家にはいって車の鍵を手にして男を追った。もちろん三人とも乗っている。
 どこをどう逃げたのか、夜明け前の広々とした工業団地。足で逃げたのだからこのあたりにはいるはずと思えたあたりには男の姿はなかった。 家の車の鍵を取りに入って車を乗り出すまでにそれほど手間どったわけではない。
 あとから考えてみると、たっぷり一キロはあろうという道のりを、男はやはり捕まるという恐怖の力を借りて実力以上のスピードで駆け抜けたに違いない。 「おかしいなあ、そんなに遠くに行けるはずはないのに」と三人でキョロキョロしながら点滅している信号の方にノロノロと車を走らせていると、イチョウ並木の下を、追っ手をまいたとほっとしているらしいゆっくりとした足取りのチカン男が歩いていた。
「あ、あれだ!」と車を寄せるとたちまちほっとした足に鞭打つしかない男が走り出した。少し先に車をとめて夫がようやく追いついて男を捕まえた。
 捕まると割合いにあっさりと観念してしまった男は、それでもわたしたちが「警察に連絡を」というと、すぐにその場にひざをついて「それだけは勘弁してくれ」と言った。わたしには確信があるわけではなかったが、毎夜のようにいたずら電話をかけて来るのがこの男だとピンときたし、電話でのああいうタチの悪い行為は許せないと思った。相手がわからないから夜中に起こされても文句のもって行きどころがない。 病人をかかえているとそのたびに「もしかして・・・」と不安な気持ちになり、そうでないとわかっても眠りを妨げられた腹立たしさはいつまでも残る。ついには電話局に裏番号をひとつ取ってもらってダイヤルで設定したり解除したりできるようにしてもらったが、もとはといえばこのヤローのせいだと思うとこのまま無罪放免という わけには行かなかった。
 近くの工場の警備室に駆け込んで警察に電話をかけてもらった。パトカーが到着するまでの間に、ふと見ると、チカン男と整備員以外の三人、つまりわたしたちの家族であるが、の格好はひどいもので、最も珍妙なのは和服式のタオル地のねまきに靴という夫であった。 わたしはトレーナーにくたびれたジャージー、娘はまあまあまともな、というかそのまま外にいてもおかしくはないというデザインの黒いパジャマ姿であった。ふだん会社に出入りするときには努めてきちんとした身なりをしているわたしの、これはなんとまあ情けないみすぼらしい格好だろうと改めて思った。「はだかでいないようにしなさい」という聖書の警告がある。主の再臨に備えて、恥ずかしくない姿でいないということである。こういうことかと思わないではいられなかった。
 わたしたちはもちろん、かのチカン男にもちゃんと椅子を用意してくれた警備室で、ふと隣りにかけていた娘の手もとを見ると、なにかプラスティックの切れ端を握っていた。「何?これ」とよく見ると、それは玄関を飛び出すときに手にしたコウモリのその柄であった。ではコウモリの本体はどこへ行ったか。 どうやら娘は男が逃げ出したときにそのコウモリで男のからだのどこかを打ったらしかった。その拍子にコウモリは折れてしまったのである。その柄に気がついてからつい先ほどの警備員の人がチカン男にかけたことばの意味が了解できた。「なんだ?おめえここ怪我してんのか」腕をさしてそう言ったのであった。
 「家宅侵入ならびに婦女暴行未遂事件」は、いちおう正規の手順で取り調べが行われたが、初犯であり、ただお宅の娘さんに恋してあのときも中に入ってどうこうしようというつもりはなかったと本人がいってますので、という係官の話に、わたしの方も「それでは会社にも親にもこのことは明かさないことにしましょう」と決着をつけてきた。
 Hという名のそのチカン男が、今もなおすぐ近くのあの会社で働いていているのかどうか知らないが、わたしはついに彼があのいたずら電話の主であったかどうかを彼の口から聞くことなしにこの一件を見送ることになった。
 Hは恋しくて思いつめた女の子に、コウモリ傘でその柄が折れるほど強くひっぱたかれるという屈辱的な目に遭い、それで彼の罪はもう十分にさばかれたに違いないものであったろうから。そして、ひどく内気でまじめな性格だという観察をした警察官の話をそのまま信じるならば、あの経験は彼の一生にとってたいへん重荷になっているに違いなく、 五年たった今も、これから後も、彼の頭のどこかには消えることなく住みついてしまっているだろう。
 あの事件のあと、Hと同じ会社に働いている、以前うちのお店でアルバイトをしていた男の子にHのことをそれとなく聞いてみたことがある。 彼の話では警察官の観察は的はずれではなかったことが判明し、不審がる元バイト君にも明るく「なんでもないの、ちょっと知ってるから」と答えて、Hの首を会社につないだままにしておいてよかったと思った。

 あれ以来とんでもない時刻に電話が鳴ったというのはゆうべが初めてである。すぐには寝つけないほど腹立ちでいっぱいであったが、今こうしてこの一文を書けるのはあの電話のおかげだと思うとたいして気もたっていない。

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