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花の名前から見栄まで出る

(平成二年六月)

今、栗の花がまっ盛りである。このあたりには栗畑が多く、あちこちでこの花をみかける。くぬぎの花とよく似ているが、咲くシーズンは栗の方がずいぶん遅れる。
 同じ時期に咲くのにゼニアオイの花がある。だれも住んでもいないような家の庭にもこの花が咲いているのを見ると、大切にめんどう見られながら育つ蘭の類よりもずっとたのもしく、その生命力の強さに驚かざるを得ない。そのほかに垣根にびっしりと貼りつくように咲いている小さなピンクの花がよく目につく。しかし、この花の名前わからない。
 たまに徒歩でちょっとした場所へ行っても足もとにある野の草の名前わからないことにがっかりしてしまう。だれかほかの人の書いた文章を読んでも、なにげなく雑草の名などが書れているのを見ると、それだけでもう尊敬に値するように思える。わたしはなんて物を知らないのかと我ながらがっかりするというわけである。
 いつであったか、恋人にするには植物の名前をたくさん知っている女の人がいい、といった男いた。つまり、いろんなむずかしいことをたくさん知っていて議論したりする女性よりもいっしょに山を歩いていて、すぐそばにある草や木の名前をみんな言える女性のほうが気が休まるというようなことをいっていた。ほんとうにその通りであると思う。
 わたしはどう考えても気の休まらない女の方に属するようで、たとえそのへんの雑草のいくつかの名前を正確にいうことができるとしても、ついそのものについての他の知識をも話したくなってしまう性格なので、そのへんがちっとも奥床しくないのである。
 雑草で思い出したが、去年はイヌタデが多かったのに、今年は圧倒的にタンポポが多く繁殖した。これはうちの駐車場の草取りをして実感したことである。オオバコの数は毎年それほど変わらないように思える。
「貧乏章」といわれるヒメジオンがうちのまわりにすくすくと何本も出ている。いかにも貧乏なように見えるから、というのはちょっと違っていて、草そのものが貧乏とか金持ちを表しているわけではない。 わたしの推量では、この草は手入れをしない場所にたちまち生えてきて、つまり、貧乏というよりは「ものぐさ」「怠けもの」と結果として出てくる草なのである。
 日本人の性向として怠惰はテキであり、常にまめまめしく働くことが美徳とされている。草をこまめに取り除くことがゆくゆくは貧乏とはおさらばできる第一歩なんだよと、ごく下層の方からできあがってきた教えのようなものではないだろうか。ほかにも手を入れないとすぐ繁殖する雑草はいくらでもあるのに、なぜヒメジオンだけが槍玉にあげられるかというと、それはきっと丈が高くなって目立つからではないだろうか。
 どうも貧乏草のイメージがついてまわるので、さすがのものぐさなわたしもこれだけは目につくとすぐに抜くようにしている。
情ない「見栄の心」がこんなところではからずも露見してしまうのである。

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