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刺傷事件

(平成三年三月)

 頭の下の方から流れだしている血が、首とはだけた胸のあたりと着ている服を染めている。肩で息をしながら車を呼んでくれという。主人が救急車だというとそれを遮って車だとなおいう。
 わたしは119を回して主人に従った。「これを捨てて」といってひん曲がった包丁をわたしの足もとに落とした。これを相手の手からもぎとってここまで血を流しながら必死走ってきたのに違いない。
 頭のほかにも二、三カ所刺されているらしいが、着ているものが黒っぽいのでよくわからない。 床には点々と血が滴り落ちて彼女の足もとからはもっとたくさんの血がかたまりになって落ちてくる。
 あとを追ってくるかも知れないという彼女の不安を取り除くために主人が奥へ連れていき、わたしは急いであたりに落ちている血を拭き取った。救急車がなかなか来ない。青ざめた顔で息をついている彼女に声をかけ続ける。「大丈夫?」
「大丈夫、うん」
「奥さん、気丈だねえ。 よくこんなになって 気を失わないで・・・」
「気を失っていたらあたしは殺られていたよ」
 こういう場面は映画やテレビの中だけの出来事だと思っていたのが、目の前で展開されていく。止血しようにもどこがいちばん深い傷なのかがわからないし、とりあえず見える血を拭くことだけしかできない。 彼女の足も靴下のままで、座ったその場所にたちま血が溜まってくる。
 ようやく救急車が来て、隊員の人がはさみで着ているものを切り裂いて応急手当をお店の中でした。白い下着が赤く染まっていて、もともと色の白い彼女の肌に鮮血がまとわりついている。お店のまん前で止まった救急車にてっきり主人が倒れたのかと思って飛び出してきたお隣りの奥さんが、厳しい目をして救急隊員の手元をみつめているが、わたしは全体だけしか目にはいらない。
 救急車が行ってしまうとわたしはなんとなく胸のあたりがおかしい気がした。娘も血の匂いが気持ち悪いという。主人はどこへ行ったのかと、庖丁のありかを聞くために探すと娘とふたりでこたつの中で横になっている。やはり一瞬目まいを起こしたらしい。

 四、五日前から、よその家の出来事ながらなにか黒い雲のたちこめるような感じがしてはいたが、まさかこのような嵐が起こるとは予想もしなかった。
 思うに、彼女Sさんはああいう怪我を負わされてもなお、相手をかばう気持ちがあり、事を明るみに出したくないという意志が救急車ではなくタクシーを呼んでほしいということばに表れている。応急処置を受けているときにも、隊員の質問に「夫婦げんかです」とはっきり答えていて、できるだけほかの人を巻き添えにすまいという気持ちが働いているように思えた。その家の前を今日通りかかってチラ見ると、縁側のサッシのガラスがないところに、 黒雲が立ち始めた日にわたしが寒さしのぎにあげた段ボールがそのまま貼ってある。三月になってからひどく暖かい日とひどく寒い日の気温の差が大きく、その日はとくに寒い雲り空の日であった。前の夜のひどいけんかで かなり厚いガラス戸が破られ、電話も壊されたと聞いていた。そのときに「ガラス屋さんが来るまでこれを・・・」とあげた段ボールである。そのせいでわたしの家に駆け込んで来たのか、それとももっとほかにわたしに頼ればなんとかなると思ったわけがあるのかどうかはよくわからない。

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