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蕗の皮むき

 (平成五年六月)

 毎年梅雨前の今ごろには蕗が出る。 わが家の裏にも自生の蕗が出て、肥料などというものなどあげないからいたって貧弱なものではあるが蕗には違いない。

 義姉が病院へ行くというので、姑をこちらで一時預かることになった。姑は目立ったボケはなく、胃腸などの内臓も今のところ異常はないが、時間の観念に欠けている。目が覚めたときはいつも朝だと思い込む。朝食のあとうとうとして目が覚めても、昼寝をして目が覚めても、夕方うとうとして起きても、いつも目が覚めるのは朝に決まっていると思っている。それだから朝起きてからすることをひととおりするものだと思って身じたくを整えたりするらしい。
 わたしが病院に連れて行くときには、それほどの時間観念の狂いはないが、これはわたしが彼女にとって「嫁」という立場にある人間であるからで、姑は娘にたいするときよりはかなり緊張してわたしにたいしているということがわかる。
 その嫁の住む家に来て何時間かを過ごすということは、姑もさることながらこちらも気を使う。 六月になるというのに冬支度を部屋に整え、掃除して、昼食を用意する必要がある。こちらに来ると聞いたのが一時間前とあってはなおあわただしい思いをしなくてはならない。それでもなんとか格好をつけておかずを作っていると姑が来た。
 姑はとくにまごつくでもなく、 またこちらも同様に変な気使いもせず病院へ連れて行くときに話すような調子で話しかける。
 食事のあと姑は裏庭の蕗をとると言った。庖丁を預けて好きなようにさせることにしたが、わたしが食事を終えてもまだあがって来ない。小一時間経ったころようすを見に行くと、ほんの二十センチばかりに伸びたものまで全部刈り取られた蕗の葉があちこちに散乱している。久しぶりに土に触れて悪い気がしなかったのであろうか、姑は実にゆっくりと蕗と土を相手に時間を過ごしたらしい。
 その刈り取った蕗の皮をむくという。横で見ていて気づいたことがある。わたしが蕗の皮をむくときには切り口のほうから葉のあった方へ向かって最後までむききり、また別の皮を爪先でとっては最後までむききる。それを繰り返して一本の蕗の皮むきを終えるのであるが、腕の長さと変わりのないほどの長さのものとなるとやたら手間がとれる。最後までむきらないと気がすまないというのは、単にわたしの勝手な思い上がりで、実際にはなんの意味ももたないことである。
 姑はこれをもっと能率的にこなした。爪先で元から葉の方に向かうのは変わりはないが、最後まではむききらない。途中まででやめて次の箇所に移っては途中まででやめる、を繰り返していちばん最後に途中にぶらさがっている皮をまとめて葉の方へ引く。そしてなお残っているむききれない皮を、蕗を半分に折ることによって自然に取り易くしまとめてむいてしまう。
 こうするとたいへんな時間の節約になる。 わたしが感心したのは、目が覚めればそれがいつも朝と思い込むような年になっても、ごく小さいころから身についているそういう家事にたいする知恵というか、習慣というか、そういうものがまったく損なわれないでいるという、まさにそのことであった。「雀百まで踊り忘れず」姑のためにあることばである。



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