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心理的距離

(平成五年八月)

 カウンセリングの理念で先生は、人がふたりいる場合、その物理的な距離 は心理的距離に比例すると言った。このことについて思い当たることはずいぶんある。
 たとえばA君夫妻の場合である。彼らの場合は北海道と茨城、とまさにその物理的な距離は数百キロにも及び、A君のほうでもっと密接にいたいと思っていても、距離をとっているのは彼女のほうで、これは新婚の時代ということを考えると明らかなルール違反とも思える。そういうルールなど初めから眼中にない人だということがじゅうぶんに予測できて結婚したとすれば、A君は物理的な距離をものともしないであろうが、彼の予測はかなり甘く、自分では心理的に接近したように見えただけのことかも知れない。こういう場合は最初から悲劇的である。
 今日の朝日新聞の「ひととき」欄には三十八才の主婦からの投書が載っている。彼女は夫から「もう君にはもう感情はない」と宣告されたというのである。まだ子供が小さいのですぐには別れないが、いずれは別れることになるだろうとまで言われている。そして、彼女はそうまで言われてこのままいっしょに生活していくということに自信をなくしているというのである。
 この場合も悲劇である。彼女のほうには少なくともまだその夫にたいする依存の気持ちがあり、 愛情が生活のベースであるべきだと考えているからである。夫からこのように宣告された時点で、彼女の愛情はいっぺんに冷しまったかも知れず、ほんとうを言うとふたりの子供を、ひとりではどうやって育てていけばいいのかがわからないということではないだろうか。彼女の夫のほうは「長年連れ添った夫婦なんて、みんな恋愛感情なんてないよ。もっと違った感情で家族として暮らしているんだ」と妻に言っている。考えかたにすでに食い違いが生じている。
 経済的な理由で、と割り切れば彼女のほうに悲劇のヒロインたる根拠もなくなるのであるが、彼女はおそらく女性には珍しいロマンティストなのであろう。彼ら夫婦にはすでに心理的距離が存在しはじめているに違いない。
 この記事からわたしはついA氏の家庭の事情についても考えざるを得なかった。A氏は自分のほうからはこの記事にあるような宣告はしていないにしても(むしろ逆に奥さんのほうから「子供たちが一人前になったら離婚します」と言われているらしい)、本質的な性格の違いから「ここまではお互いに子供のためにルールを守るが、ここからは個人のレベルでという線を引いていると言っていた。つまりこれは記事にある夫と同じことで、奥さんにたいしてはただ便宜的な夫婦関係を保っているに過ぎないということになる。
 彼は自分の奥さんの家での行動を少し話し、テレビの番組の選びかたからしてまったく違うというようなことを言った。自分が見たいと思うような番組からはほど遠いものを見るので、彼はつい自室のテレビのほうへ行くというのである。「つまり心理的な距離があるということ?」と質問すると、彼は「そういうことになるね」と答えた。しかし、A氏の場合は先の例ほど悲 劇的ではないように思える。なぜなら彼らの間には徹底した「割り切り」があるからである。もちろんこれは推測に過ぎないが、A氏の話から推して奥さんの性格の見当はだいたいつく。少なくとも新聞に投書するような性格ではない。
 さて、わたし自身となるとどうであろうか。実をいうと、これがわたしにはもっともたいせつなことであって、自分の置かれている立場についてその足もとをよく確めるいいチャンスであると思う。
 結論から言うと、わたしとわたしがうらみすら抱いているその相手との間にはみかけの物理的な距離以上の心理的距離がある。みかけの物理的距離というのはたとえば仕事のことで話す場合の互いの距離とか、あるいは相手が自分の実家で母親のそばにいるというその物理的な距離のことである。
 わたしの友人Hさんは、わたしの家の事情をほかの人よりはやや知っているが、彼女は「今さらそんなこと言ってどうなるものでもない」と、当時まだじゅうぶんにロマンティストであったわたしに忠告した。経済的な理由がその大半を占める、というその根拠にすがって彼女もまた「割り切り」妻なのである。
 今のわたしは「割り切り」 妻になりきっているであろうか。確かに「割り切り」はしている。それは事実である。割り切らないととてもやっていけないという実感がある。そしてさらにそれに輪をかけるような悪条件は妻という立場を放棄していることである。つまり新聞の夫人はもとより、A君の奥さん、A氏の奥さん、Hさんよりももっと悪質な主婦ということになる。
 世に「鶏が先か、卵が先か」という問答がある。つまり原因と結果の順序であるが、相手にすればわたしが原因であると考えるであろうし、わたしのほうでも相手が、そのおおもとだと考えている。つまり現状を作り出したのは互いに五分々々であり、その割合いのバランスを崩しているのは妻の立場を放棄したわたしのほうである。
 進化論では鶏が先か卵が先か、という問題には答えが出て来ない。しかし聖書の創造論によれ答えは明らかである。つまり、卵が先だとそれを抱く親鳥の不在は卵の死を意味して、成長はもとより生存すらおぼつかなくなるのである。わたしの場合には、進化論によってこの問答が繰り返されているような感じがして、いつまでたっても結論にたどりつかない。けれども、どっちかが原因だと認めてしまえば答えはおのずと出て来るはずである。つまり創造論に切り換えれば話は簡単なのである。わたしの弱いところはまさにこの部分で「わたしがその原因です」と宣言すればそれチョンなのに、たったそのひとことを認めることができない。
 わたしは確かに「弱い人間」ではあるが、 このことで自分を「不幸な人間」であるというふうには考えていないということである。不幸とか幸福は非常に相対的なもので、すべて気のもちようで決まることである。わたしは今自分の好きなことを好きなようにできる自由をたくさん持っていて、しかもその自由はわたしが自分で獲得したものである。与えられた自由ではないということに大きな意味がある。相手は「自分は不幸な人間だ」と思っているかも知れないし、また不幸ではないにしても不運な人間だと思っているかも知れない。しかしそれは相手が自分で選んだ道であり、「言」さえあればその「動」はわたしによって拒まれることはなかったはずである。そこが決定的な差で、その差に気づいたわたしのほうの「割り切り」がわたしから「不幸」の二文字を消去してくれている。

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