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選ばれた

 高校二年頃のある日、ちょうど私の下校時間に日蝕のみられたことがあった。いつもは必ず誰か友達といっしょに駅へ向かう商店街を歩いて帰るのが、その日は私ひとりだった。日蝕は割に珍しい皆既日蝕に近いもので、昼間なのにあたりが薄暗くなり不気味なようすになった。なだらかな下り坂を、空を見上げながら歩いていて突然、本当に突然、私の目にあるひとつの光景がはっきり見えた。厳密にいうと肉の目ではなく、心の目といえる。
 大勢の何十万とも何百万とも知れないほどの人々の間に不吉な流言が飛び、それを聞いた人の顔はたちまちこわばり、まもなく自分の身にふりかかってくるであろう何かよくないこと、そして誰もそれからは逃げられないとわかった恐怖が、巨大な波のように人から人へと伝播していく。そしてその背景は確か昼間であるのに夕暮れとはまた違った暗さで、その不吉さはたとえようもない。 私はこの光景をどこか高いところからごく冷静に見ている。 私の中に強い確信がこの時生まれた。
「この通りのことが起こる時が必ず来る。今日のような暗さの日に・・・」

 結婚して奈良からはるかに離れ、遠くへ嫁ぐのは、母もひとりで満州へ渡ったのだから、 それが血というものだろう。ひとりで茨城へ来てしまった。長男が幼稚園に入園する時、義姉がなにかのコネで、この町の商店の子弟が伝統的にこの幼稚園をでているから、と A幼稚園を勧めてくれた。キリスト教系の園だとわかったのは入園式の日になってからであった。
 何度か母の会に出ているうちに、私はキリスト教の話をきき、よくは理解できないままに幾分の興味をもつようになり、自分で持っている、高校時代にキデオン協会からもらった和英対訳聖書をみる機会がふえていった。
 読んでいるうちに、どうも今ひとつ意味が飲込めない、という数カ所に突き当り、どうやらこの本以前の本があるらしいと見当がついた。今考えると信じられないような、恥かしい話であるが、聖書には新約と旧約がある、ということをその時初めて知った。すぐ本屋さんへ行き、旧約聖書を求めてその日の夜から読みはじめた。
 本はもともと嫌いな方ではないので、まして未知のものによせる期待は大きく、 創世記から、気持ちも新しく読み始めた。そしてそのストーリーの展開のおもしろさに時間の経つのも忘れ、ふと時計を見ると三時、というような日が四、五日続いた。
 聖書をよく知っている人からみれば何を今頃、と笑われそうだが、周到で、しかもそれが別々の記者によって書かれているのが不思議なのだが、来たるべきひとつの方向に向かって流れて行く壮大な物語に夢中になって読み耽った。人間に大きな示唆を与えてくれるだけではなく、聖書は文学としても非常に価値の高いものである、と心からそう思う。
 旧約は預言の書であるが、それが確実に二千年以上前に書かれたものであるとは信じられ ない程、現代にも充分あてはまり、今ここにそのための例をあげるのは控えるが、読む程人間の本質のいかに変わらないものであるかが痛感される。
 さて、おもしろさに魅かれて読み進み、エゼキエル書のある箇所まできて私は愕然とした。 七章六節にこう書かれている。
「終わりが来る。 その終わりがくる。 あなたを起こし、今、やって来る。」
又、二十六節
「災難の上に災難が来、うわさがうわさを生み・・・」
さらにもう少し先のヨエル書。
二章一節の後半から。
「この地に住むすべての者は、わななけ。 主の日が来るからだ。その日は近い。闇と暗黒の日。雲と暗闇の日。......このようなことは 昔から起こったことがなく、........これから逃れるものは一つもない。.....太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。」 
 エゼキエル書からヨエル書へ目を走らせる時、私の心臓は破裂せんばかりにたかなり、手も背中も汗に濡れた。
 前後の文章をここに引用するのは省くが、このあたりは世の終末について書かれている。 そして私がもう十何年も前に学校の帰り道にみたあの幻のような光景に恐ろしいほどそっくりな情景が今ここで読んでいる。この本に書かれている、これはどういうことなのだ、いったいなにを意味するというのだ、と驚きを通り越して寒気さえ覚えた。あの幻は神が私に与えられたひとつの啓示であったというふうに考えなければ、他にどんな考え方があるだろう。私はこの謎のような話を誰かに聞いてもらいたい、また真相を知りたい、それをすべて解明できるような知識をもっている人に出会いたい、それもできるだけ早く、と思った。

 それから十五年が経った。
 今、洗礼を受けてから、 これまで自分のたどって来た道を思い返すと、まったく私は他の人より特別に神から選ばれ、かなりはずれた道を歩いていた時でさえ私の気付かぬところですべてをコントロールして、しかも私に愛想をつかさないで私を生かしておいて下さっている、と実感できる。私には私に合ったように、方法と時と場所をちゃんと心得て用意していて下さったのである。 これが三十年計画であること、人間の力や知恵の外で進行して行き、又その方向が もうすでに決められていることが、私には恐れるに充分で、決して私が自分の意志で神を選び取ったのではない、と他の誰にもいえる。

(昭和六十三年十二月)

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