見出し画像

山のぼり その2

(平成五年七月)

 五月になって、笠間へ行く道すがら、難台山への登り口の標識が目についた。左側にかなりの急坂がチラと見え、右側に車を止めるやや広い場所があるのを見た。
 A氏に案内標識の話をし、こんどこそは辛い思いなどしないですんなりと車で行くことを想定して、「退勤時間になったらそれから行ってみませんか」と誘った。待ち合わせる場所を指定して、わたしは先に行き待ったが彼は来なかった。
 何か引き継ぎで急に用事でもできたのか、それともわざとすっぽかしたのか、さっぱりわからず、せっかくいいプランなのにと非常に残念に思いながら家にもどった。
 そのあと彼に会っても、彼はとくに弁解もせず、ただ不愉快なような表情をあからさまにわたしに見せ、人となりをすっかり理解できていると思っていたわたしを困惑させた。
 それでもあとからあとから興味のある本に出会うたびに、わたしはつい黙ってはいられずに「この本がおもしろいから、これがよかったから…」と次々に彼に届けてはいた。彼は初めのペースは決して崩さず、自分の興味の外にあるものはその場でわたしに返し、何度も同じ間違いをするわたしを暗にたしなめたがそのうちに、わたしの興味の対象を徐々に受けれるようになってきた感じがした。たとえばカウンセリングのビデオ・テーブなどはその良い例である。
 彼の日曜出勤の当番とわたしの休みの重なる日が、ゴールデンウィークによって崩され食い違うようになった。カレンダーを見るとA氏の出勤とわたしの休みが合うのは数ヶ月先になることがわかった。
 あれからしばらく経っていてもA氏にたいする「大疑問」はまだたくさん残っていて、待ち合わせの場所に来なかったこともこちらが思っているほどの一大事ではなかったのかも知れないと思った。
 わたしならば人との約束を守れなかったときにはそのことを詫び、わけを説明して誤解を受けているのならそれを解くことを先に考えるであろう。そういう行為のないA氏にたいして、なんとも思っていないのならなおさらとがめだてのできないようなことになっている。
 つまり、これはすべての能力において、A氏の方がわたしよりもずっと勝っているという負い目からきていることなのである。あるいはそのまったく逆かも知れないという可能性もなくはないのであるが、なにしろ彼がわたしに話すことといえば論理的、科学的なことがほとんどなのである。自然にこっちは萎縮してしまうことになる。
 彼が一時間もかかってここまで勤務に来ることを考えると、それを知りながら自分の都合に合わせてほしいと頼むのは相当図々しい気もしたが、断られてもともともと難台山に行こうと彼を誘った。一度すっぽかされているとどうしても臆病になる。約束の時間にここに来なかったら、わたしはまたもや彼にたいする負い目をより大きくされて、いっそうみじめな思いをしなければならない。そういうことのあとには、わたしはもはや本を持って彼を訪ねる勇気もなくなるであうし、せっかく同じくらいのレベルで話せると思っていた友達をなくしてしまうことになる。
 テレビを見るともなしに見ていると約束の時間になった。お店の駐車場まで来てくださいと頼んでおいたのである。
 彼の車が坂を上がって来るのが見えたときのほっとした気持ちは、およそその車の運転手にはわからなかったであろう。
 わたしは車を止めたそのそばにすぐに行き、まず「来てくださってありがとう」とお礼を言った。なにしろ仕事でもないのに、一時間もかけてここまで来てくれたのであるから非常に誠意のある行為と認めなければ罰があたる。
 梅雨はまだ明ける間があり、前日が雨であったのでお天気が気になっていたが、さいわいその日はまあまあの天気であった。200メートルくらいまでは車で登り、そこに車をおいて歩きはじめた。草刈りの仕事を終えたの人が肩に草刈り機をさげて降りて来る。A氏がだいたいのコースをその人に聞いてくれて、いよいよ歩き始めることになった。
 さすがにこの前の愛宕山のときほどにはわたしも早くネをあげなかった。
 途中で四人の親子連れが向こうから来るのに出会った。小学生くらいの男の子のほうから「こんにちは」とあいさつし、この親子がよく山を歩いている家族であることすぐにわかる。
 背の高いその父親がわたしのこと見て「このひとつ、ふたつ目だったかな、かなり急な坂がありますよ。 スカートではどうかな。」と言った。わたしは軽い靴は履いていたが、自分で縫ったチャイナドレスを着ていて、手にお揃いの布で作った抱えバッグをもっていた。なるほど、山歩きにはまったくむいていない格好である。A氏のほうは半袖のワイシャツに細かいチェックのスラックス、運動靴であるから問題はない。
 10分くらい歩いているともう汗が吹き出してきて、着ていた薄いジャケットを脱ぎ手にもった。ハンカチで顔の汗を拭いながらお化粧などまったく無駄なことであったと後悔し、口の中がねばついてきて、脈が早くなるのがいやでもわかる。
 30分ほど歩いて休みの時間をお願いした。それまでにかなりの坂を登ったりくだったりしていて、下りがあるということは、帰りにはそれがすなわち登りになるものである。足の幅ずつしか前に進めないようなゆっくりとした歩きかたでも、A氏は少し先に行っては待っていてくれて、その顔には「まったくしかたがないなあ」と書いてあった。わたしのほうは物を言う気力もないので、「仰せのとおりです」と無条件降伏を顔であらわすしかない。
 草の上にわたしだけ腰をおろして休んだが、そのときにA氏は自分の脈泊数を計った。120だと言う。 わたしのも計ってもらうと150であった。 その差の分だけわたしのほうが苦しいのである。
 もう先に進みたくないというわけではなく、帰りの登りのことを考えるといささか気が重かったが、どんどん先に先に行く彼をどうすることもできずに、しかたなくあとついて行くしかなかった。
 何度も坂をあがったりおりたりして、雨のあとですべりやすくなっている地面を、それこそ足の幅だけずつ進むように歩いた。肩で息をしながら、かたつむりが大旅行をしているようなありさまであった。
 ひとつの山の頂上だというしるしか、少し広いところの真ん中にコンクリートの標識が打たれていて、それからしばらく下りが続いた。やがて舗装された道路に出て、その出口には大理石でできたテーブルと椅子があった。
 A氏は「どうぞ」と言ってわたしにそこにかけさせておいて、自分はやや離れたところに立っている案内板の前でそこから先の行程を見ていた。
 看板から先は急に道が狭くなり、勾配もこれまでよりは急になったようである。大きな岩に出る直前は今までにはなかった急な坂で、左側にはロープが張られていた。その恐ろしいようなかたむきに「冗談じゃないわよ」とわたしがひとりごとを言っていると、先の岩の上に立っていたA氏が「左側にロープがあるよ」と大きな声で教えてくれた。わたしのひざの裏側が悲鳴をあげた。
 出発地点の案内では、ふたつの山を走破するには三時間の行程であると書いてあったので、これにはわたしたちが登りにかかった時間からみても無理なことはわかっていた。大きな岩のすぐ先にやや広い場所があり、そこでひと休みしてからそこから先に行くかどうするか思案しているらしいA氏であったが、わたしのほうは頭の中に新しい太陽の光が射し込んでいるような感じがして、何も考えることができなかった。自分が現在どういう状況にあるのかも、すべてどうでもいいことのような気がして、湿っている地面に倒れ るように横になってしまった。
 A氏はわたしからは離れたところに、最初のうちは立っていたがやがて腰をおろしてたばこを吸い始めた。汗を拭うハンカチはもっていないようであったがたばこは忘れないという人なのである。動けないでいるわたしを情けなさそうな顔をして見下して立ち上がると少し先のようすを見に行った。
 その地点までおよそ1時間半ほど歩いている。もどるのにそれより少しよけいにかかると見て、と頭の中で計算をしていたのは、暗くなってしまうと厄介なのとわたしの帰宅の時間を心配してのことに違いなかった。
 秋の紅葉の季節がいいかも知れないとわたしに言って、A氏はそこから引き返すことに決めたらしかった。 いいも悪いもとにかくそこにいつまでもいるわけにはいかないし、車の置いてある場所までもどることが目先の問題である。わたしはそれまで下りだとほっとして下り坂を、こんどは悲壮な思いで登らなくてはならないことを考えると暗澹たる思いになってしまった。
 わたしが落ちつくのを待ってA氏はもどることを告げ、また先に立って歩き始めた。さっきのロープはあがるためのものではなく下りるときの滑落を防ぐためのものであることが、その場になってようやくわかった。途中4人くらいのバイクの高校生らしい男の子達に出会った。 乗物から降りずにこの胸のつかえるような坂を上がろうともくろんでいるらしかったが、50ccくらいのオートバイでは到底無理である。
 むやみにエンジンをふかすばかりで、車輪は空回りしている。そのうちに諦めてしまったらしい。「ああいうバイクじゃ無理だね」とA氏が言った。「そうね、モトクロス用のでなくちゃね」とわたしが言い、「モトクロスもね。ちょっとやってみたいなって思ったことがあるの」と言うと、A氏はしんからあきれたような顔をしてわたしを見た。
 道路に出たはいいけれど、またあのいくつもの坂を登らなくてはならないのかと思うと、なんとかそれから逃げる道はないかと思った。 案内板を見ると、車道が車を置いたところまで示されていて、遠まわりにはなるけれども 少なくともあの苦しさからは逃れられるような気がした。A氏に舗装道路の方を行くように提案すると、それほど反対もせずにわたしの言うとおりにしてくれた。
 下りの道が続き調子よく歩けたが、話したい話題がたくさんあるにもかかわらず、山道では遺伝子やコンピューターに関することはなぜか不似合いな気がして、わたしはただ黙って歩いた。 途中でさっきの男の子達がすごいスピードでわたしたちを追い抜き、たちまちその音が足もとのほうで聞こえた。 A氏はその音のゆくえを木の間からのぞいてわたしにも見るように示し、「あんなに下だよ」と言った。どう考えても登ってきた分以上の落差がある。この道は遠まわりどころか、一旦平地までおり、さらに愛宕山に登る道路らしかった。
「いいの?この道で」とA氏が聞くのでわたしも多少不安になり、「ねえ、さっきのところまでもどりましょうよ」と言った。 A氏は笑って「まあ、いいじゃない。行ってみよう」とまた先に立って歩く。しかたがないのでついて行くと途中でいくつか山にはいる道があったが、来るときにどこにも合流している道などなかったから、そこにははいらないのが正解だと思った。迷うとなお厄介なことになる。
 あたりはやや薄暗くなってきていた。手遅れにならないうちにと思って「ねえ、やっぱりもどりましょうよ」と言ったが、 A氏は「はは、こっちの道のほうがいいって言うから来たんだよ」と取り合おうとしない。もう何を言っても無駄だと思ってまた黙ってついて行くとやがていちばん低い地点に着いた。時間は六時であったと思う。
 考えたとおり、たしかに愛宕山に続いている道路には違いなかったが、山頂まで70分と表示してある。 わたしはぞっとした。こんどはまったく登りばかりの七十分ということである。調子よく下って来るのではなかったと思っても、もう現にそこまで来てしまったのだから取り返しがつかない。
 A氏は笑いながら「降りてきたものは登るしかないんだよ」と言っている。登りにさしかかる手前には数軒の農家があった。
 わたしは登り始めるとすぐに「ねえ、どこかのおうちで電話を借りてここまでタクシーに来てもらいましょうよ」と提案した。そんなバカなこととはA氏は言わなかったが「甘い、甘い。さあ、歩くんだ」と有無を言わせない。しかたなく彼に従った。
 すべりこそしないが舗装道路を登るのは決して楽ではなく、またそのうちに息が切れ脈拍数が上がって汗が吹き出してきた。 A氏は1メートルあまりに伸びた細い竹を摘み取って、手に持ち、ときどきテニスのサーブのような格好をしてゆうゆうと歩いていく。わたしはなんとも情けない格好でみすぼらしくついて行く。
 たまりかねて休みの時間をもらい、ガードレールのそばにへたり込んだ。そういうときでもA氏は決して腰をおろさない。 じっと辛抱強くわたしが平静になるのを待ってくれていて、そのときには去年ひとりで行った槍ヶ岳のことなどを話してくれた。予定の時間よりも大幅に遅れ、真っ暗な中をひとりで下山するときの心細さを話す彼に、わたしのさっきのタクシー云々は
問題外も甚だしいものだということを教えられた。
 気を取り直してまた歩き出すが、かれこれ3時間ほとんど歩き続けているようなものなのでくたびれ果てている。 その間一滴の水も飲んでいないのである。2,3分歩いただけでまた休憩前の苦しさにもどってしまい、横に寄って休もうとするとA氏に止められる。まだだめだよと言われると逆らえない。ようやく十五分くらいしてもう一度休みの時間をもらった。思わず口をついて出たことばは「ああ、ビールが飲みたい!」であった。
 わたしはふだんはアルコールは口にしない。飲んで飲めなくはないが、好んで飲もうとはまったく思わない。飲むことが好きな人をとやかく言うつもりもまったくないし、むしろ全然飲めない人よりは上品に飲める人のほうが好感がもてると思っている。けれどもお酒に逃げ込む性格にはやや抵抗があり、それに囚われてしまう人にはいい印象のもてないことも事実である。
 そのわたしがなぜか思いもよらなかったことばとして「ああ、ビ ールが飲みたい!」と出てしまったのである。これを聞いたA氏はまったく同感の意を表して「そりゃそうだ」と一も二もなく賛成した。
 車を止めてある場所からそう遠くないところに、四月にお茶を買ってもらった販売機があるはずで、ビールがそこにあったかどうかはわからなかったが、とにかくひとつの楽しみができた。もうだいぶ暗くなっている道を青息吐息で登ると、やがて遠くに彼の車の白い姿が見えた。「ああ、車があった」A氏が言い、そのことばと同時にわたしは思わずうれしさに走り出した。「なんだ、 ま だそんだけ力が残っているんじゃない」とA氏は後ろで笑っていた。
 結局「つぼ八」で私たちはビールを1リットルずつ飲み、わたしは「今まで飲んだうちでいちばんおいしい」と素直に感想を言った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?