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ボッシュまで

 中学生の頃の私は、場違いの学校へ入ってしまったアリスの気分で、アリスなら友達もいていろんな冒険にめぐりあえて楽しかろうが、私は身にそまぬ場とさまざまのコンプレックスだけがふんだんに与えられ、そこで私の唯一の楽しみは絵をみることであった。
 毎朝母から四十円を受取り、その頃一個二十円で買えたパン二個の昼食を急いですますと、一目散に図書室へ行った。 図書室には無表情の坊主頭の大学生らしい人がいて、本の貸出しの仕事を口数少なく事務的にしていた。
 私の目指す本は、右側にひとつある入口からちょうど対角線の位置にある書棚の一番下の段に並んでいる大きな判の美術のシリー ズであった。
 今あの本を自分で買うとすると一冊七、八千円はするような立派なものであった。それが三十冊はあったから、私は毎日図書室へ通って一日に一冊ずつ、午後の授業のチャイムがどうかまだ鳴りませんように、と心に念じながらすべてを見た。前の日に印象に残った絵は、次の日もう一度解説をよく読み、隅々まで目をこらしたものである。
 出版社や監修者をまったく覚えていないが、 それらの本は、図工の授業の時に先生の顔を思わずしかめさせるような私にとっては、とびきりの教師で、いまだにあの「禁帯出」の シールの貼ってあったシリーズに優る本にも人にも出会わない。
 これらの本の中で特に私が興味をもったのは古典派といわれる作家の多くの宗教画であった。 聖母子像、キリストの受難の図、聖徒の受難の図、祭壇画などである。私はもちろんまだその頃は、クリスチャンでもなくキリスト教にも特に関心があったわけでもない。
 それらの絵の持つ一種の悲しみが私の心を捕えただけである。 聖セバスティアンの裸の胸にささった数本の矢や、そこから流れている血に、十三、四歳の私はため息をつき、マリアに抱かれている赤ん坊がキリストであることも知らず、触れば柔らかな弾力が感じられそうな肌のすばらしい表現に心から驚嘆した。いつまでもながめていたいような、恋に似た感情が今懐かしい。そう、まさに私は絵に恋していたと思う。食事もそこそこに一刻も早く会いたい、いつまでもいっしょにいて 見つめていたい、別れるのがつらい、時間が短く感じられる、すべて同じではないか。
 私の図書室通いは、よく覚えていないが一年くらいは続いたと思う。成績が良いとはいえず、経済的にも恵まれず、自我のめばえはじめた頃の条件としては、最悪とまでいわなくとも、 あまりいいといえないなかで、この思い出は鮮烈である。いわゆるネクラだったその頃、それをカムフラージュするためにわざと明るい女の子を装ったりしたが、ひとりになるとさっきの分におまけがついて来てなお一層みじめな気持ちに落ちていった。渡り廊下の柱に飛付いて、足や腕を巻きつけ、その時分封切られた映画「道」のジュリエッタ・マシーナのまねをするかと思うと、これから首吊り自殺をしようとする男の心理を、まるで経験のあるかのように描写した小説を書いてみたり、することなすこと素直ではなく、自分ひとりがこの世の悩みを全部背負っているかのような思いあがりであった。
 絵はそれに対している限り、なんのこだわりも背伸びも必要とせず、私を私のままでいさせてくれて、完全に私個人の世界で、しかもそこでは私は君臨できる者であった。その快感は今も私を捕えたままで、絵の本は他のどんな種類の本よりも強い引力を私に発し続けている。欲しいと思った本を比較的たやすく手に入れられるようになったのは、それでも今から十五年位前であろうか。
 新聞の広告でヒエロニムス・ボッシュの、三万八千円の全作品集を、惜しいと思わずに買えたのは、中学時代の反動かもしれない。 なぜボッシュを選んだのかが自分でも不可解であるが、彼の奇怪な作風をよく知らないで、いわばインスピレーションで彼の絵を予感した。 図書室でもむろん彼の絵をみているはずだが、ボッシュに限らず私はあの頃みた絵の作者を皆目覚えていないのである。 誰が描いたかは、まるで問題ではなく、何がいかに 描かれているかが重要であったからである。
 ボッシュは北ドイツ生れの画家で一五世紀半ばにたくさんの非常に象徴的な宗教画を描いている。 ダ・ヴィンチと同時代の画家である。が、ダ・ヴィンチほど人に知られていない。彼の絵の、ある意味でサディスティックな表現は、何の予備知識ももたないでも、細部まで丹念にみると飽きるということがない。 彼の絵の中にはいり込むと、私はすっかりアリスの気分で、しかももう充分年をとったアリスなので、あらゆるコンプレックから解放され、大きな目覚まし時計にも驚くことはない程ひらきなおってしまっている。

 (昭和六十三年十二月)


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