#23 「18.44m」(3/6)

「もうやってもらってるはずなんだけどねえ」
 ビルの管理人が、のんびりした口調で言った。今日の現場はここだと指示されて来たのだが、管理人は昨日の段階で作業は終わっていると言う。
「いや、そんなことはないはずなんだが」
「あのさ、こっちが違うって言ってんだから。変なこと言わないでよ」
 管理人はさっきからずっと私を見下した態度をとっている。年上の者に対する敬意のなさが言葉の端々から感じられた。自分の現役時代には考えられないことだ。先輩選手には常に気を使い、若手は風呂も食事も後というのが常識だった。道具や荷物を運び、練習の手伝いをし、酒の相手などもした。時には理不尽と思えるような振る舞いもあることはあったが、それがきっかけで気に入られ、様々な助言を頂いたりしたことも数知れなかった。近頃の若い連中ときたら、先人に学ぶという姿勢に乏しいのではないか。
「じいさん。ほらここ見てよ」
 管理人が指差した足元からは、確かに最近ワックスを塗ったであろうと思われる光沢が放たれていた。
「ま、あんたの勘違いだよ。ご苦労さん」
 そう言うと管理人はその場を離れた。私は釈然としない思いを抱えつつも、このまま会社に戻る気になれず帰宅することにした。
「……少し歩くか」
 記録的な猛暑が続いた今年の夏も、ここ最近は鳴りを潜め、随分と過ごしやすくなってきた。左膝の違和感は季節を問わず相変わらずだが、ここから自宅までは地下鉄で五駅程度だ。近いとは言えない。とは言え決して歩けない距離ではない。
 薄汚れた作業着姿のまま、車の往来が激しい通りを歩いた。道行く人々の様子から休日であることを知った。
 大手新聞社のビルの外壁に、今日の朝刊が掲示されていた。立ち止まって目を通したスポーツ欄には昨日のプロ野球の結果が載っていた。パ・リーグではホークスが順調に首位を走っているらしい。
「南海がダイエーに身売りしたのはいつやった?」
 背後からの声が私をうんざりさせる。
「最初は酷かったな。そうそう田淵。奴が監督のときは特にやで」
「……」
「世間一般では王監督になってから強くなったと思われとるけどな、それは違う。根本さんや。あの人が今のホークスの礎を築いたんや」
「……」
「しかしまあ、ダイエーもそうやけど、ソフトバンクも未だにしっくりせんな。やっぱりホークスは南海やで」
「溝内さん」
「なあ、今からちょっと付き合わんか」
 私は無言でかぶりを振った。
「ええやんか。これから札幌ドームに行くから一緒にどうや。行けば投げてみたいって思うって。それにな……」
 連射が如き勢いで繰り出される溝内の言葉が身体を貫いた。忙しなく動く上下の唇がいつしか別の生き物のように映り、それを目にするたびに私の意識がきりきりと軋んだ。
 義郎さん、あんたは昔からそうだ。いつもこうやって突然現れては色んなところに私を誘い出したんだ。初めてミナミに行ったのも、初めて女を知ったのも、麻雀を覚えたのもあんたと一緒のときだ。半人前にどうしてそこまでと思わなくもなかったが、「お前は必ずモノになる」と言われるのが嬉しくて、いつもついて行ったものだった。

***


 ナイスピッチングや、タクさん。
 どうや、初勝利の味は。ええもんやろう。この世界は一つも勝てずクビになる奴が圧倒的に多いんや。胸張っていいと思うで。起用してくれた監督さんはじめ、タクさんの勝ちのお膳立てをしてくれた人全員に感謝せなあかん。……アホか。誰もお前からおごってもらおうなんて思ってない。一人ずつしっかり頭下げて、「これからもよろしくお願いします」の一言があればそれで充分や。
 お前はこれで終わる選手やない。もっと勝てるはずや。油断せんでもっと気張らんと。まあ今年は五勝もすれば上出来やな。そんで来年は二桁を狙ったらええ。出来るって。
 さて、明日の一面はタクさんで行くようデスクに頭下げてくるわ。当たり前や。向こうにしたらたかが新人の初勝利で一面飾るなんてとんでもない話やで。ま、何とかなるやろ。楽しみにしといてな……。

***

 巨大な半球が空へ向かうはずの視線を威圧的に遮った。札幌ドームの天井は骨組みが剥き出しになっていて、思ったより殺風景だ。ここから外の様子は解らない。人工芝の緑が色鮮やかだった。随分と高いところから観客席が急斜面で降りてきて、四方八方に取り囲まれたグラウンドはまるですり鉢の底のようだ。強烈な照明塔の光に目の奥が鈍く痛む。がらんとした球場内に、私と溝内以外は誰もいない。地下室に閉じ込められた気分になる。
「ここに来るのは初めてか」
 溝内の声が無駄に反響して聞こえた。
「時代の進歩やな。こんなところで野球するんやから」
 履いている靴の薄いゴム底から人工芝の硬質な感触が伝わる。確かに昔、つまり私が現役の頃は屋根付きの球場など発想すらなかった。野球という競技が天候の影響を受けるのは当たり前で、強い日差しの下ではユニフォームは常に土で汚れ、雨が降ればびしょ濡れになりながら白球を追いかけたものだ。しかしどうだ。これではまるで室内競技だ。
「タクさん、ほら」
 溝内が私に向かって何かを投げた。反射的に受け取る。手の中には真新しい公式球があった。懐かしさと違和感が交錯した。
「なあ、ちょっとそれマウンドで投げてみんか」
 溝内の言葉の意味を理解するのに時間を要した。
「あそこで投げてみてくれ。大丈夫や。許可は取ってあるし」
「……」
 それはきっかけと呼べるほど大仰なものではなく、日常生活の中にひっそりと埋めてしまうことも、あるいは見て見ぬふりをすることも出来た。むしろそうすることが心の均衡を保つためには都合がよかった。しかしこの日の私は違った。濁った意識の奥にある何かが揺さぶられた。いくつもの小さな振幅が次々と積み重なり、徐々に大きくなった揺れが骨や内臓にぶつかって鈍い音を立て、ついには私の皮膚を突き破った。

 あの日、私は先輩選手の誘いで、普段なら足を運ぶことのない高級料亭に行った。通された奥の個室には、仕立ての良い背広を着た柔和な面持ちの男が座っていた。先輩選手とはよく知っている間柄のようで、すぐに賑やかな酒宴が始まった。次々と運ばれてくる色彩豊かな料理や酒を前に、私はただ戸惑うばかりだった。
 どのくらいの時間が経過していたのか。ふと気が付くとテーブルには分厚い茶封筒が置かれていて、封をしていないその隙間から、いくつか札束が覗いていた。思わず息を飲んだ。個室の中は緊張と弛緩が複雑に交錯した何とも言えない雰囲気に満ちていた。
 先輩選手と男は何やら数字を交えた話をしていた。主に男の言うことを先輩選手が了承する形のやり取りが続いた。初めは何のことか解らなかったが、断片が少しずつ繋がる過程で、ようやく自分がとんでもない場に巻き込まれていることを知った。やがて先輩選手は小さくうなずいて、封筒を受け取った。事の進み具合の滑らかさから、このやりとりが常習であることは明白だった。
 男は私にも八百長を持ち掛けてきたが、それは必死に断った。どうしたかは覚えていない。土下座したのかもしれないし、絶対に口外しないことを約束したのかもしれない。男の表情が険しくなった。初めは柔和だった面持ちや視線はいつの間にか鋭く尖り、自らがその筋の人間であることを隠す気もなさそうだった。先輩選手がその場を何とか取り繕ってくれたおかげで、私には具体的な指示は出なかった。先輩選手は自分の札束から数枚の一万円札を抜き取り、「いいから取っとけ」と半ば強引に私のポケットにねじ込んだ。それからはまた元通りの酒宴が再開された。私は場が収まるまで手を両ひざの上に置き、ずっとうつむいていた。ポケットの中にある丸められた紙幣の存在が気になって仕方がなかった。この金は帰りのタクシーの中で返そうと思った。押し寄せる自分の鼓動の激しさに嘔吐しそうになるのを何度も堪えた。
 私は八百長に直接関与したわけではなかった。従ってその後の報道の内容には誤りが多分にあったのだが、当時の世論の受け止め方は、記事に名前が載った時点で「クロ」であり、そこにどんな釈明があっても聞く耳を持つ雰囲気などなかった。

 気が付くと私は溝内の胸ぐらをつかんで何度も揺さぶっていた。溝内は抵抗することなく、されるがままだった。その無抵抗さが却って私を更に腹立たしくさせた。右の拳を思い切り突き出すと、衝撃が脳にまで響いた。人の顔がこんなにも固いものだとは思わなかった。痛みがじんわりと広がる。溝内は尻餅をつく格好でグラウンドに倒れた。鼻血が出ていたがそれを拭おうとせず、やはり無表情のまま私を見上げていた。
 義郎さん、あんたのせいだ。どうして事前に私に聞きに来てくれなかったんだ。あんたがろくに調べもせずにあんなでたらめな記事を書くから、俺がこんな惨めな思いをしているんじゃないか。そうだろ。そうに決まってる。それで何だ?今更投げろだと?冗談じゃない。ほら見ろ。今の俺は現役当時とは見る影もない。頭髪は薄くなり、手足が細く下腹部が出っ張り、筋肉もそげ落ちて張りを失った。何よりも相手打者と一球ごとに精神と削るような勝負をしていた活力などとっくに忘れてしまった。これが今の外ノ池卓司だ。こんな衰えた肉体を人目にさらして何になる。自分が投げてどうなる。さあ教えてくれ。俺は何のために投げるんだ。
 その瞬間、球場内の全ての照明が一斉に消えた。突然現れた完全な闇に、上下左右の感覚が強引に引き剥がされ、足元が少しだけ浮いているような気分になった。同時に湧き起こる眩暈にも似た不安に身震いする。溝内を呼ぶも返事はない。それどころか気配も感じられない。そこにあるのは真の孤独であり、孤独とは自分を照らす光を失うことだと知った。体温が低下している気がする。身震いが止まらない。両手で自分の身体を抱きかかえても抑えることが出来なかった。
「ここや、ここにおるぞ」
 声の方向に顔を向ける。いつの間にそれほど遠くないところに溝内がいる。いつの間に移動したのか。私はゆっくりと歩を進めるも、溝内がいる場所までなかなかたどり着けない。足取りのおぼつかなさが自分でも感じられる。暗さのためか、自分が前進していることさえ疑わしい。
「こっちやから。早く来い」
 不意に子供の時分に目隠し鬼で遊んだ記憶がよみがえった。
 鬼さんこちら、手の鳴る方へ。
 じゃんけんに負けた私が目隠しをして、逃げ回る他の子どもたちがはやし立てる声の方向を頼りに手探りで捕まえようとしていた。しかしただ周りを右往左往するだけで全く捕まえられず、思わず目隠しを外すと、子供たちはずっと遠くにいて、夕暮れ時の茜色の空の下に私だけが取り残されて、その状況にふと寂しくなって涙が出て、おいおいと泣きながら家に帰る……。
 記憶の奥ではしゃいでいる幼い声が幾重にも反響し、やがてそれらが一本の太く長い縄となり、意思が宿ったかのようにうねりだしたかと思うと、私の身体に絡みつこうとした。縄は獲物を狙う大蛇のように緩急をつけた動きで牽制して来る。私は必死で抵抗するも、一瞬の隙に右腕を取られ、あっという間に全身に巻き付かれた。解こうにも強くなっていく締め付けに身動きが取れない。やがて縄が喉に食い込み、息苦しさに気が遠くなっていく。
「卓司さん」
 耳元で静江の声がした。それに反応したのか、縄がほんの少しだけ緩んだ。私は反射的に身体をくねらせて脱出し、一目散に駆け出した。
「静江、近くにいるのか」息を切らしながら私が問う。
「はい。いますよ」穏やかな口調で静江が答える。
「卓司さん」
 どれだけ走っても静江はすぐそばにいた。
「卓司さん、ダメじゃないですか。殴ったりしたら」
「ああ。そうだな」
「しかも右手で。怪我でもしたらどうするんです」
「え?」
「溝内さんには後で謝ってくださいね」
「……」
「解ってますから。私はちゃんと解ってますから。だからお願いです。一度でいいから見せてください。あなたの投げている姿、見せてください。溝内さんのためじゃなく、あなた自身のために投げてください」
「……静江」
「お願いしますよ。卓司さん」
「……」
 静江の気配が消えたその瞬間、私は全身に強い衝撃を受けた。球場の壁にぶつかったようだ。不思議と痛みは感じなかった。しかし頭を激しく揺さぶられたためか、先ほどまで何も見えなかった目の前に、真っ白で濃密な光の渦が現れた。渦はグラウンドを飲む込むほどの大きさで、ゆったりと自転していた。世の中の全てを支配する流れだと思った。私は瞼を閉じると吸い込まれるようにその中心に飛び込んだ。沈んでいく。ずっと深くまで沈んでいく感覚を身体いっぱいに浴びた。クラゲが海中を漂うように。羽毛が空中を舞うように。尚も深く静かに沈んでいく……。

 何がきっかけか解らないまま目を開けた。自分がどこにいるのか確かめる。どうやら自宅のリビングのソファで横になっている。拓海が覗き込むようにこちらを見ていた。孫曰く、自宅で拓海と遊んでいた私は、疲れたと言ってソファに座るとすぐに眠りだしたらしい。
「大丈夫?」
「ああ。大丈夫だよ」
 私はゆっくりと起き上った。居間の床にたくさんのミニカーが散らかっていた。額に若干の痛みが残っていたが、それ以外は特に目立った怪我などはなさそうだ。貴子は買い物に出かけて留守にしていた。彼女が出かける際に、私が拓海の面倒を見ると言ったらしい。
「おじいちゃんがそんなことを?」
「そうだよ」
 私が大丈夫だと知って安心したのか、拓海はミニカーで遊び始めた。
「拓海、おじいちゃん、どっか出かけてなかったっけ」
「うーん、解んない」
 事態を整理する。仕事のいざこざの後で溝内と札幌ドームに行き、そこで溝内を殴り、停電になり、記憶の縄に襲われ、静江が現れ、光の渦に飛び込み、そして気が付けば自宅にいる。訳が解らない。誰かが時間を間引きしているようだ。釈然としないままソファに座り直し、遊んでいる拓海の後ろ姿をぼんやり眺めていた。
「おじいちゃん!」
 その声に焦点を合わせた途端、拓海がいたずらでミニカーの一つをこちらに向かって投げた。一瞬、身をすくめる。ミニカーは私の左頭上を越える勢いだ。このまま壁にぶつかれば傷つけてしまう。私は思い切り左手を伸ばしてミニカーをつかんだ。

 あなたが投げている姿、見せてください。
 あなた自身のために投げてください

 先ほどの静江の言葉が蘇った。その生々しい響きに、あの時間の間引きが決して錯覚ではないことを教えられたようだった。その気持ちは感情の奥深くに染み込むも、しばらくして行き場を失ったのか、次第に感じられなくなってしまった。
「うわ、ナイスキャッチ!」
 拓海のはしゃいだ声。手のひらには硬質な感触が残っている。
「こんなの投げちゃダメだぞ」
 足元にミニカーを置き、悪びれるでもなく微笑んでいる拓海に渡した。
「ねえおじいちゃん。今度は鬼ごっこしよう」
「鬼ごっこ?」
「そう。まずはおじいちゃんが鬼ね。鬼さんこちら、手の鳴る方へ」
 拓海は楽しそうに手を叩き、さほど広くはない家の中を走って逃げ出した。少しだけ古傷がうずくような違和感を覚える。拓海の俊敏な動きについていけるか不安だったが、考えてみれば孫にとって私の役目はずっと鬼なのだと思い、一人密かに納得した。「ほら、今行くぞ」と私はゆっくり立ち上がる。(続く)

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