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#13 姉と私とひこうき雲と ep.3

 部屋の中にはまだ香辛料の香りがほのかに漂っていた。今夜の夕食は麻婆豆腐。麻衣ちゃんの好みに合わせて刻み唐辛子も普段よりは多めに。そのせいで私は食事中、噴き出す汗を拭かなければならず、そのたびに麻衣ちゃんにからかわれた。
実を言うと、今日の私は随分と機嫌がいい。とてもいいことがあったのだ。だから「あんたってホント料理上手だよね。尊敬する」なんて見え透いたお世辞も、大海原のごとく広い心で受け入れることができた。だって今日は機嫌がいいから。せっかくの日を麻衣ちゃんのことで苛々して台無しにしたくない。 

 麻衣ちゃんが転がり込んできてとりあえず半月が過ぎた。長年に亘って平穏を保ってきた私の部屋に突如として大型台風が侵入してきたようなものだから、大変だったことは言うまでもない。お互いの私物をどこに置くだとか、家事の分担はどうするだとか、新しいルール作りに余計な時間を取られた。しかも麻衣ちゃんは決めたことに必ず文句を言うのだ。それでも何とか一通りは片付けると、室内の密度が一気に高くなった。「こりゃ狭いね。引越しでもしようか」と言う麻衣ちゃんの背中を、抗議の意味を込めて小突いた。
 それにしても麻衣ちゃんは何を考えているのか。こちらとしては一時預かりのつもりだから、裕之さんと話し合って自宅に戻るなり新しく部屋を借りるなりして欲しいのだが、当の本人からその気が感じられない。むしろどんどん馴染んでいる。まるでここに麻衣ちゃんの国が樹立してしまったようだ。
 その国の中で麻衣ちゃんのヒエラルキーは極めて高い。あんなにちゃんと片付けたのに、数日もすると部屋の中は麻衣ちゃんの私物に占拠されてしまった。正にあの日見た光景の再現だった。その度に私が元に戻すのだが、次の日になると同じ光景が繰り広げられる。とにかく家のことを何一つやらない。掃除なんて以ての外だし朝夕の食事の準備も私の担当だ。大型の台風は俄然その勢力を増し、日常を乱しながら停滞している。このままだと私の方が新しく部屋を借りることになるかも知れない。
夕食を終えた麻衣ちゃんはテレビを見ている。常識問題を出して、回答者がいかに間違うかを楽しむタイプのクイズ番組だった。出題されるたびに「和同開珎」とか「タクラマカン砂漠」などと答えたり、「嘆かわしいねえ今の若い人は」と年寄りじみたことをつぶやいていた。私は皿にしつこく残った油汚れを慎重に洗いながら、その様子を背中で感じていた。

 濃い目に作った紅茶に程よく熱した牛乳を注ぐ。ゆっくりと赤と白がマーブル状に交じり合っていく様子はどことなくエロティックだ。麻衣ちゃんは「そんなの一辺にやったらいいのに」と私の密かな興奮に水を差すが、牛乳では浸透圧の関係で紅茶の成分を充分に抽出できない。美味しいミルクティを飲みたいならこの方法がベストだ。仕上げにハチミツを加えると更にコクが増す。なみなみ注いだマグカップを渡すと、麻衣ちゃんはほんの少し驚いた表情を見せた。
「どうかした?」
「ううん。へえ、随分とサービスいいじゃない」
 子供の頃から猫舌な麻衣ちゃんはなかなか飲むことが出来ずにいる。その姿はどこか小動物のような愛らしさを連想させた。念入りに息を吹きかける唇も程よいボリュームで、こんな感じが男の人にはたまらないんだろうなと思ったりする。
 実際、麻衣ちゃんは昔からよくモテた。
 私が知る限り、学生の頃から期間の長い短いはあるにしても常に付き合っている人がいたし、その他に複数いる自分に好意を持っている人とは何とも絶妙な距離感を保ちつつ接していた。試験前にノートをコピーさせてもらうとか、お金が足りないときにご飯をおごってもらうとか。要するに都合よく使っていたということなのだけれど、これまで特にトラブルになったことはないらしく、しかも本人が言っていることなので眉唾ものではあるにしても、それでも妙に納得させられる雰囲気を確かに麻衣ちゃんは持っていた。きっと甘えたり突き放したりするタイミングとその強弱を計るのがとても上手なのだ。私にはとてもそんな器用な真似は出来ない。
 ようやくミルクティが適温になったようだ。麻衣ちゃんはゆっくりと一口飲み、ほっとしたような表情を見せて「美味しい」と言った。

 今夜の私は珍しく口数が多い。ミルクティを飲んでいる間、ほとんど私が喋っていた。話題はほとんど自分の仕事こと。いつもテストで点数が低い生徒が今回は頑張ったとか、同僚の教師からこれから仕事をする上で指針となる金言をもらったとか。嗚呼、今日はとてもいい日だった。明日もそうなればいい。こんな日が続くなら人生はなんて素敵なんだろう……。
麻衣ちゃんはちゃかすでもなく、感想を言うでもなく、私のとりとめもない話を黙って聞いていた。そして麻衣ちゃんのマグカップの中身がようやく半分を超えた頃に「何かあったの?」と言った。いつもの麻衣ちゃんらしくない、さりげなくも温もりに満ちた声だった。
「何かって?」
「だからそれを聞いてるの」
「さっきから言ってるでしょ。今日はいいことばっかりだったって」
「そうじゃなくてさ。……美幸ちゃん、変わってないね」
「え、どういうこと?」
「子供の頃からだよ。悲しいことがあるとミルクティ作るの」
「……」
「やだ、自分で気づいてなかったの」
「……」
「ホントのこと言いなよ」
「……」
 甘いミルクティと麻衣ちゃんの言葉に心が揺れ、何かが一気に決壊した。自分でも驚くほどすんなりと涙がこぼれた。泣きたくないのに。その気持ちに比例するかのように、嗚咽と共にとめどなく涙が流れた。
今日、受け持ちの生徒への対応でミスをしてしまった。それは学校と保護者を巻き込む形になり、私だけではどうにもならず、他の先生方の力を借りてどうにか致命的なミスには至らずには済んだ。しかし自分に対する失望感はことのほか大きく、教師として一人前と思っていた自惚れを心から恥じた。もう職場に行きたくない。こんな私がこれから先どの面下げて生徒と向き合えばいいのか。何もかも放り投げてしまいたかった。でも、麻衣ちゃんにはそんな姿は見せたくなかった。どうせ私の気持ちを逆なでして、「嫌なら辞めちゃえばいいのに」と簡単に言うに決まっている。麻衣ちゃんにはバカにされたくないから、とことん隠し通すつもりだったのに、こともあろうにミルクティ一杯であっさり見破られている。もう嫌だ。これほど恥ずかしいことがあるだろうか。
「……あのさ」
しばらくして麻衣ちゃんが口を開いた。クイズ番組は既に終わっている。
「全部を一人でやるなんて無理でしょ。天才じゃあるまいし。そんなときは周りにお願いしたらいいの。わたしできませーんって。そうやって生きる方が楽だよ。自分からしんどいところに飛び込まなくたっていいんじゃない」
「……」
「ま、美幸ちゃんは完璧主義者だから、プライドが許さないのかもしれないけど」
 そんなこと言われなくても分かっている。私だって好きでそうしているんじゃない。出来ることなら楽だってしたい。でもどうしても無理なのだ。自分が取り組むなら完璧にやり遂げたい。どこから眺めても非の打ちどころのない仕事がしたい。それのどこがいけないのか。いい悪いといった問題ではなく。それが私なのだから仕方がない。

 重苦しい沈黙が部屋を満たす。涙は止まったが気持ちは晴れない。このまま時間が止まればいいのにと陳腐なことを考える。このままずっと夜が続けばいい。明日なんて永久に来なくていい。
「で、美幸ちゃん、どうすんの?」
「もう行きたくない」
「あーあ、すっかりしょげちゃって」
「……」
「明日、行かないとダメだよ。行ってお礼言わなきゃ」
「……」
 それから再び長い沈黙が続いた。麻衣ちゃんはもうそのことについては何も言わなかった。すっかり温くなったミルクティを飲み干すと、「ごめんね、なんかビールとか飲みたくなっちゃった」と冷蔵庫から缶ビールを取り出し一人で飲み始めた。
「美幸ちゃん、お風呂にでも入りたいねえ」
 小さい溜息をついて私は立ち上がる。
「この前買ったちょっといい入浴剤入れてさ。のんびりしようよ」
 麻衣ちゃんのどこまでも呑気な物言いが腹立たしい。でも私も今夜はいつもよりも長く湯船に浸かりたい気分だった。(ep.3了)

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