見出し画像

#31 蒼い空と海の記憶(1/3)

 春の穏やかな日差しが陸上競技場に降り注いでいた。こげ茶色のトラック上では中二男子400メートルの決勝が行われていて、各校のゼッケンを背負った選手が大きな声援を受けて走っている。見上げると雲一つない青空がまぶしい。その刺激で目の奥がじんわりとほぐれていく。この調子ならいけるかもしれない。念入りにストレッチしながら僕は思った。
 先頭の二人が最後の直線に入った。歓声は一際大きくなる。お互いのプライドが火花を散らすかのようにぶつかり合っていた。熱気がここまで伝わるような一騎打ちだ。僕は分の出番が近いことを一瞬忘れ、思わず手に汗を握って戦況を見守った。
 結局、その二人はほとんど同時にゴールになだれ込んだ。その直後、大きく肩で息をしながら、お互いの健闘を称えがっちりと握手をした。その瑞々しい光景に競技場全体が拍手に包まれた。まるでチープなドラマのワンシーンのようだったが、それはそれで許される雰囲気があった。
 僕は自分の出場種目である中三男子3000メートルの点呼のために集合場所に向かった。足元からざわざわと沸き立つものを感じ、それを合図に心地よい緊張感を身にまとう。
 スタートラインには、僕を含めて12、3人の選手が一斉に横一列に並んでいた。両掌で自分の顔を数度叩く。このレースで2位以内に入ると、中体連北海道大会の出場資格が得られるのだ。期待と不安が身体の中で入り乱れる。大丈夫。ここまで取り組んできたことを信じよう。落ち着いて、必ず勝てるから。僕はいつものように大きく息を吐く。そうすると徐々に鼓動が全身に響き始める。全ての細胞の存在が感じられる気がする。
 やがて僕の集中力がピークになるのを待っていたかのようなタイミングで号砲が鳴った。程なくして全体の中盤から少し前の辺りに出た。いつもの自分の場所だ。これで落ち着いてレースを運ぶことが出来る。シューズ越しに伝わる土を踏みしめる感触がいつになく軽い。耳元で聞こえる風を切る音が声援のように聞こえた。これならいけるかもしれない。最初の一周を終えた時点で、思わず顔が少しだけ綻んだ。
 僕は中学入学と同時に陸上を始めた。きっかけはテレビで見たマラソンレースだった。有力と目されていた選手がスタート直後に転倒、先頭集団から大分遅れを取った。それでも諦めずに最後まで走りきり、10位という結果を残した。当初それを見たとき、僕は転ぶなんて何やっているんだと嘲りにも似た気持ちで見ていた。しかしその選手はレース後のインタビューで「最後まで走れて楽しかった」とコメントした。負けて悔しいはずなのに、それを微塵も感じさせない様子が僕には不思議だった。走るってそんなに楽しいことなのか。疑問は日を増すごとに大ききなり、気がつけば僕は走っていた。自らが試すことで答えを見いだそうとしたのかもしれない。幸いマラソンとの相性は良かったようで、走るたびに記録が伸びた。そうなるともう僕は虜になった。部活の他にも朝と晩の自主トレーニングを毎日欠かさなかった。自分がどこまで出来るのか試したくて仕方がなかった。
 しばらくすると先頭を走る選手たちのペースが落ちてきた。どうやら息も上がっているようで、僕が普通に走っているとぶつかってしまいそうだ。思いの外早かったな。僕はここで先頭に出た。途端に視界が開け、行く手を遮るものは何もなくなった。もうここには敵はいない。このままゴールへ向かって走るだけだ。両方のふくらはぎに力を込める。既に僕の背後には人の気配は感じられなかった。
 結局、僕は二位以下に大差をつけて優勝した。大会記録を20秒近くも上回る圧勝だった。流れる汗が心地よい。勝つ自信は多少あったが、新記録までは考えていなかった。チームメイトの祝福を受け、乱れた息が収まっていくと共に、何とも言えない嬉しさがこみ上げた。そして次は北海道大会だと思うと、背中にぐっと力が入った。

 海面の向こう側。大きなタンカーが水平線をなぞって走っている。どこか外国にある小さな島のようにも見えるあのタンカーは、蜃気楼のようにゆらゆらと揺れていた。
 中学校生活最後の夏休み。僕はここ数日、ずっと海を眺めながら過ごしている。今年は冷夏という長期予報だったのだが、七月初頭からずっと夏らしい天候が続いていた。海からの強い反射光が目にまぶしい。呼吸をするたびに潮の香りがした。それは忘れかけていた海の香りだった。以前は毎日のように来ていた海も、中学生になってからは足を向けることはなくなっていた。勉強と部活とで、僕の生活は一気に忙しくなり、海の存在自体を忘れていたかもしれない。
 本来ならば今日、僕は中体連の全北海道陸上競技大会に参加しているはずだった。時刻は11時を少し過ぎた辺り。いつもの茶色の土のトラックとは異なる、タータンの感触を確かめながら、念入りにレースの準備をしている時間帯だ。今までにない緊張と、それ以上の高揚感を味わっていたことだろう。それなのにどうして僕はここにいるのか。そんな思いが頭から離れない。近くに目線を移すと、砂浜の上に一組の松葉杖が無造作に置かれている。そして左膝をがっちりと固めたテーピングと包帯。それらは僕にあの日の記憶を蘇らせ、苦々しい気持ちにさせる。
 それは地区予選が終わって一週間後のことだ。大会直後は軽くストレッチ程度の練習だったのだが、この日から全道大会に向けて本格的なトレーニングが始まった。僕自身、初めての全道大会だったので、その気合いは半端ないものだった。
「健太、ペースが落ちてる。後二周」
 早速、顧問の先生の檄が飛んだ。それを聞いた僕は足の回転を早めた。少しだけ視界が狭まる。そして周辺の空気がだんだんと輝きを増しながら滑らかになる。自分の走りがきちんと出来ているときに覚える感覚だった。
 最後の直線に入り、僕はラストスパートをかけた。ゴールがどんどん大きく見えてくる。タイムを計測している他の部員の表情が明るい。もしかしたら自己ベストを更新するかもしれない。
 突然、強い衝撃と共に周囲の風景が変化した。黄土色の固い地面が異常なくらいの近さに見えた。砂粒が口の中に入りざらざらする。どうしたんだろう。身体が自分の意思に背いているように動かない。
 ようやく自分はその場に倒れたことを理解した。同時に全ての感覚が蘇った。左膝に鼓動に呼応するかのような激痛が走った。そしてそこを中心とした同心円状に痛みが広がっていく。僕の神経を引きちぎるようだ。呻き声とともに脂汗が浮かぶ。脳から顔へと順番に血液が引いていくのが分かった。
 そこからの記憶は曖昧だ。しばらくして救急車のサイレンが聞こえ、それが途切れると、担架に乗せられたのか、僕の身体がふわりと浮かび、救急隊員が顧問の先生に「左膝の靱帯が損傷している可能性があります」と伝えているのが聞こえた。担架の不安定な揺れを感じながら青空を見ている僕の両目から涙がこぼれた。何ごともなかったかのように透き通った青空が、僕には堪らなく疎ましかった。

 そして今、僕は砂浜に座って海を見ている。手元の砂を掬う。砂はすぐに指の隙間からこぼれ落ち、風に吹かれて宙を舞った。その存在感の希薄さが今の自分の姿と重なり、思わず自嘲気味に笑った。
 診察の結果、僕の左膝の靱帯は伸びてしまっていた。断裂しなかったのは不幸中の幸いと医者は言ったが、どちらにしても不幸であることには変わりない。全道大会出場の可否は考えるまでもなかった。
 本来ならば大会とその練習に明け暮れているはずの夏休みは、一転して空虚なものへと成り下がった。あのトラックを走り抜ける快感こそが、僕が僕であるために必要不可欠な要素だった。周りの期待に応えて結果を出したことが誇りでもあった。そして最大の目標が目の前に迫り、今までにない手応えを感じていたというのに、ほんの一瞬だけ膝の力が抜け、全てが終わってしまった。全ての色が塗り替えられてしまった。描いていた未来とは余りにもかけ離れていて、自分でもどう向き合えばいいのか分からない。途方もない喪失感に身もだえる。ともすると、自分のこれまでを何もかも壊してしまいたくなる。やり場のない憤りを粉々にするように、僕は力任せに拳を砂浜に叩きつけた。
「……」
 ふとミューを思い出した。
 小学五年生の頃、ミューは僕の唯一の友だちだった。当時、同級生にいじめられていた僕は、その救いを海に、そしてミューに求めた。ミューは決して姿を見せず、いつも僕の脳に様々なことを直接語り掛けた。最も印象に残っているのが「本当の意味で強くなれ」だった。本当の強さとは相手を屈服させることではなく、許す勇気を持つことだと。しかし僕はその真意が分からなかった。そしてその答えを明確にすることなく、ミューは僕の前から引き潮のように姿を消した。数年が過ぎ、あの頃と同じようにミューを求めている自分がいる。今の僕はとてつもなく弱い。陸上との出会いで自分に多少の自信もついた。しかしそれはまやかしに過ぎなかったようだ。あのときもらった言葉は、いつの間にか僕の身体を砂のようにすり抜けてしまった。僕は何も変わっていない。あの頃の弱虫をひきずっている。今の僕を見て、ミューは何と言うだろうか。叶わないことと知りつつも、僕はミューの声を聞きたいと思った。
 ……。
 波の音に交じって何か聞こえる。空耳と思ったがそうではない。意識をそちらに向けると、それは徐々にしっかりと形を成して僕の耳に届いた。歌だ。誰かが歌っている。辺りを見回すと、50メートルほど離れた波打ち際に一人の少女の後ろ姿が見えた。彼女は半袖の淡い青色のワンピーズを着ていて、長く伸びた髪が風に揺れるたびに右手で押さえながら、海に向かってあの歌を歌っていた。これだけ距離がありながらどうしてあの透き通るような高音が聞こえるのか不思議だったが、それでも僕の意識に直接響く歌は辺りを薄い青に染めた。気が付けば僕は目を閉じ、自分が今どこにいるのかも忘れてその歌に聞き入っていた。それは初めて聞く曲だったが、まるで昔から聞きなれた子守歌のように耳に馴染んだ。
 ふと歌声が止んだ。目を開けると、少女がゆっくりとこちらに向かって歩いてくるのが見えた。予想外の事態に思わず目をそらした。それでも少女はどんどん近づいてくる。やがて僕の目の前まで来ると、「君ってこの前もここに座ってなかった?」と言った。
「私もいい?」
 僕の返事を待たずに、彼女が隣に腰を下ろす。突然の訪問者に僕は戸惑った。ようやく一人で完成させた砂の城をあっさりと壊されたような気持ちだ。誰なんだろう。同世代くらいだろうか。しかし学校では見かけない顔だ。最近引っ越してきたのだとすると転校生かもしれない。
「いつもこうして海を見てるの?」
「……ああ」
「海が好きなんだ」
「そういう訳じゃないけど」
「ふうん」
「……」
 二人の間を沈黙の風がぎこちなく吹き抜ける。どことなく落ち着かず、僕は彼女が座る反対側の砂をずっと弄んでいた。波は絶え間なく打ち寄せ、海鳥が鳴き、水平線上に漁船が数隻浮かんでいる。見慣れた景色のはずなのに、隣に彼女がいるだけでどこか違うような気がした。明らかに僕は横にいる彼女の存在を意識し、それゆえに緊張し、かつ高揚していた。
「……そっちはどうなんだよ」
「私?」
「あまり見かけないから。最近になって引っ越してきたとか」
「引っ越してきたんじゃないの。おじいちゃんの別荘があって」
 彼女は後ろを向いて指さした先にいくつもの牧場が広がっていた。その更に向こう、小高い丘の頂上に白い建物が見えた。そこから町全体が見渡せるほど視界が開けた場所だ。それは僕が物心ついたときから頻繁に目にしていたが、そこに住む人に会ったのは初めてだった。
「あそこに住んでんだ」
「うん、夏の間はね。おじいちゃんて童話作家で、聞いたことないかな、
新元新平。けっこう有名らしいよ」
 僕が首を傾げると、彼女は軽く手を振った。
「普段おじいちゃんは三重県に住んでるんだけど、夏になるとここに来るの。今年は五年ぶりに私も」
「ということは君も三重県から」
「ううん。私が住んでるのはずっと海の向こう。ロサンゼルス」
「え、ロサンゼルスってアメリカの?」
「そう。……どうかした?」
「いや、俺、外国に住んでる人と話すのって初めてだと思って。じゃあ君はアメリカ人ってこと?」
 僕がそう言うと彼女は笑った。
「海外で生活していても私は日本人だよ。たまたま今は親の仕事の都合でそこにいるだけだから。それだけのこと」
 しかし、僕にはそれだけのこととは思えなかった。生まれてから今まで全ての季節をこの町で過ごしてきた僕にとって、隣にいる彼女が異空間から来た人のように感じられた。
「私、新元夏海。君は?」
「健太。日下部健太」
「健太君か。よろしく」
 そう言って右手を差し出す彼女の仕草は都会的で、また凛とした視線は穏やかでありながら力強かった。僕は気圧されたようにおずおずとそれに応えた。隣に座った者同士のどことなくぎこちない握手だったが、滑らかな感触が手のひらにじんわりと伝わってきた。
「ねえ、どこか怪我してるの?」
「え?」
「だってほら」
 彼女の視線の先には松葉杖があった。その瞬間、僕は自分の意識が現実に引き戻される音を聞いた。熱気に満ちたグラウンドの空気、チームメイトの声援、走るたびに伝わる土の感触、そして先頭でゴールに飛び込んだときの誇らしさ。それらが絶妙のバランスで存在しているところにあの瞬間の痛みが重なった。一気にバランスが瓦解する。数か月前に見ていた景色は繊細なガラス細工のようにもろく崩れ去った。今の自分を突き付けられた気がした。僕は単なる怪我人だ。松葉杖なしではろくに歩くことも出来ない。
僕は繋いでいた手を乱暴に解いた。彼女に困惑の色が浮かぶ。それを見た途端、自分の行動の間違いに気が付いた。このままではいけない。どう修復していいのか答えを見出せぬまま、ただうつむくことしかできなかった。
 どれくらいそうしていただろう。気がつくと彼女はいなくなっていた。彼女が座っていた場所が少しだけ窪んでいる。僕は自分の行動の軽率さを恥じた。事情を知らない彼女にとっては、別にあの質問に他意などない。そんなことちょっと考えれば分かるはずなのに。彼女に謝りたいと思ったが、あの丘の上の別荘に足を運ぶ勇気はなかった。その後も何もする気になれずにただ時間だけが過ぎ、やがて冷たい潮風が夜を連れてきた。波の音が煩わしい。砂浜には立ち去った彼女の後を追うように、規則正しい歩幅の足跡がまだ残っていた。(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?