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#27 海辺のミュー (1/3)

 子供の頃の話をしようと思う。
 まだスマートフォンもインターネットも存在すら知らなかった頃のことだ。僕は北海道の南に位置する、漁業と牧場が主要産業の、開拓の歴史としてはそこそこ重要な位置づけをされている田舎町で生まれ育った。幼い頃の僕は随分と内向的な性格で、他人とコミュニケーションを取るのが大の苦手だった。自分の意思を伝えようにも、どうも言葉が続かず、押し黙ったり癇癪を起すことが度々あった。両親はそんな僕を精神的な側面から心配し、札幌の専門医に相談したり、関連本を読み漁ったりしていたらしい。
 小学校に入学してもその傾向は変わらず、一人でいることが多い僕は、必然的に不良グループの恰好の標的となった。靴や帽子がなくなるのは序の口で、教室の窓から机や椅子や鞄が投げ捨てられたり、トイレ掃除用のモップで顔を拭かれることもあった。またあるときは人気のないところに連れていかれ、嫌がる僕を全裸にし、身体中にマジックペンで悪戯書きされた。土の上に寝転がり、周囲の冷やかしの声をずっと遠くで聞きながら、空にのんびりと浮かぶ白い雲を無表情で眺めていた。自分が悪いんだ。僕が弱いからこんなことをされるんだ。いつの間にか流れた涙が、こめかみを伝って耳を濡らした。
 そんな僕が唯一楽しみにしていたのは、自転車に乗って近くの海に行くことだった。眼に染み入るようなあの青が好きだった。潮風を浴び、鴎の鳴き声と波の音に耳を傾けながら砂浜を歩き、打ち上げられた流木や貝殻を拾い集めては一か所に集めた。そうすることで心に絡みつくヘドロのような澱が取れ、自分が自分でいられるような気がした。そのうち辺りはうっすら暗くなり、水平線にイカ釣り漁船の漁火が無数に連なり始めると、母親が僕を迎えに来る声が聞こえてくる。そこで僕は作業を止め、いつものように「また明日」と海に告げて自転車のある場所まで戻った。

 小学校五年生の頃だったと思う。その日は朝からどんよりと雲が立ち込め、僕の心を陰鬱にした。朝起きてすぐ「具合が悪い」と言うと、両親はあっさりと学校を休むことを許してくれた。
 誰もいない部屋。用意してあった目玉焼きとトーストと牛乳で遅めの朝食を済ませる。テレビでは台風が今日辺り北海道に接近するらしく、アナウンサーが外出する際は気を付けるようにと告げていた。その言葉通り、昼過ぎから大粒の雨が降り始めた。激しく吹く横殴りの風も手伝って、瞬く間に外は暴風域となった。雨の屋根を打ち付ける音がすさまじい。窓越しに見える木々が鞭のようにしなっていた。今にも地面から引きはがされそうだ。

これは天の怒りだ。
どうしたら機嫌を直してくれるだろう。

 僕は思わず外に出た。あっという間に全身がずぶ濡れになった。襲い掛かる猛烈な空気の帯にまだ小さな身体が飛ばされそうになったが、何とか両足を踏ん張って耐えた。とてもじゃないが自転車は無理だ。傘も役には立たない。向かい風と闘いながら一歩ずつ歩を進めた。
 道路はまるで川のように水浸しだった。排水溝にすさまじい勢いで雨水が流れ込んでいく。どこから転がって来たのか、錆びたドラム缶が道路脇に引っかかるように横たわっていた。髪の毛の先から滴り落ちる雨を絞るように払いながら、僕は何かに導かれるようにゆっくりと歩いた。
 どれくらいの時間をかけたのか、ようやく海まで辿り着いた。しかしいつも僕が目にしているそれとは佇まいが明らかに異なっていた。あの瑞々しいほどの青はどこにもなかった。あるのは茶色に濁った海面が大きく口を開けて砂浜に噛みついている姿だった。僕の小さな身体など一飲みしてしまいそうなほど大きな波だった。打ち寄せるたびに地の底から響くような、砂浜を叩き割るような轟音が響く。

どうしたっていうの。
どうしてそんなに怖い顔をしているの。

 力の限り叫んでも、声は風に押し戻された。あの優しかった海が、今は僕を拒絶している。唯一の味方を失った気がした。生まれて初めて喪失感を覚えた。足元がおぼつかないのは強風のせいではない。体温が雨に吸い取られていくのが分かる。意識がふっと遠のく気がした。
 その後、どうしたのかは覚えていない。気が付いたら僕は家にいた。両親にはこっぴどく怒られたが、僕にとってはそれどころではなかった。あの狂暴とも言うべき海の表情が忘れられなかった。
 その日の夜、ベッドに横になっても眠気は一向に訪れない。台風はもう北海道を抜けたようで、あの光景が全て偽りだったと述べているかのように、既に外は静まり返っていた。どうしてもあのとき見た光景を拭うことが出来ない。身体の震えが止まらず、毛布を頭から被っては何度も「ごめんなさい」とつぶやいていた。

 次の日、学校から帰った僕は、すぐに自転車にまたがり海を目指した。両足の力を交互に車輪に伝える。走り始めは多少力が必要だが、ある程度進むと軽く感じるようになる。そうなると後はどこまでも走っていけそうな気分になる。空気を切る音が耳元に柔らかくまとわりつき、心地よい抵抗感に酔いしれる。今、僕は風と一体になっている。
 いつもの場所で自転車を降りる。目の前には砂の小高い丘。とは言え子供が越えるには少々骨が折れる高さだ。そこを越えると海がある。僕はどうしようもない不安感の中で歩き出す。まだ海が怒っていたら。まだ僕を拒否したら。心臓の動きが自分でもはっきり分かるほど高まっている。心拍と呼吸を合わせると少しは落ち着くような気がした。隅の方に二輪のハマナスが寄り添いながら咲いていた。お互いに励まし合いながら昨日の風雨に耐えたのかもしれない。花弁の赤が印象的だった。
 もう少しで丘を越えるという所まで来たとき、僕は思わず目を閉じた。まずは聴覚から海を感じようと思った。上空で鴎が鳴いている。風の吹き抜ける隅間を縫い、波が打ち寄せる音が聞こえる。滑らかだなと思った。どことなくくすぐったい感じがする。僕はゆっくりと目を開けた。
 海は優しく、鮮やかに、そして果てしなく広がっていた。今までの不安が一気に氷解する。僕は足を取られそうになりながらも、一気に坂を駆け下りた。

おかえりなさい。待ってたよ。

 そう叫びながら走る僕の後ろに、小さな足跡が残る。
 僕と海との対話は砂浜の掃除から始まった。どこからやって来たのか、ビニールや空き缶、空き瓶、流木、ボロボロになった雨合羽や傘、壊れた看板まであった。それらを拾い集めて一か所に集めた。額に汗を滲ませながら、僕はゴミを拾い続けた。そうすることで海の本来の姿が戻ってくるようで嬉しかった。

『……健太』

 誰かが僕を呼ぶ声が聞こえた。驚いて辺りを見回したが人影は見当たらない。空耳と思ったそのとき、

『健太、聞こえるか?』

 今度ははっきりと聞こえた。それは脳に直接響かせたような声だった。じんわりと温かい気持ちが広がっていく。僕は確信していた。それは誰の声なのかを。そしてその声をずっと待っていたことを。

「聞こえるよ。はっきり聞こえる」
 答える僕の声が多少震えている。
「君と話したかったんだ。ようやく声が聞けて嬉しい」
『何をしていたんだ。掃除か?』
「うん。昨日の台風で汚れてるから。集めたらこんなになったよ」
『そうか。確かに昨日はすごい雨だったからな』
「もう少しできれいになるよ。いつもの君の姿に戻る」
『それはありがたい。頼むよ』
 その一言で全身に力が漲る。僕は駆け足で掃除を続けた。喜んでもらえるなら、いつまでもそうしていたいと思った。
 夕日が水平線と交わっている。半分になった太陽から発せられた橙色のラインが海の上に伸びていた。一日の中で最も美しい時間帯だと思った。
『今日はこのくらいでいい。疲れただろ』
「ううん。全然平気」
『かなり楽になったよ。すっきりした』
「良かった。喜んでもらいたくて、ずっと向こうまで拾いに行ったんだ」
 心地よい汗が風に吹かれて乾いていく。
「明日も来るよ。またお話ししてくれる?」
『もちろんだ。来たいときにいつでも来ればいい』
「そうだ、これから君のことは何て呼べばいいかな」
『そうだな。……だったらミューと呼んでくれ』
「分かった。それじゃミュー、今日はありがとう。また来るね」
 ミューから返事はなかった。でも僕は満足だった。靴を脱いで紛れ込んだ砂を出し、自転車にまたがった。疲れているはずなのに身体がさっきよるもずっと軽く感じた。夜気が近づき、ひんやりとした空気を感じながら家路につく。遠くに母親の姿が見える。今日のことは僕だけの秘密にしよう。僕は心の中でそう決めた。(続く)


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