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#33 蒼い海と空の記憶(3/3)

 盆を過ぎると、北海道の夏はその勢いを徐々に弱めていく。盛夏の頃と比べると日中も幾分か過ごしやすくなり、場合によって夜は肌寒いときもある。夏休みも残りわずかだ。
 花火がしたいと彼女が言った。特に日本を感じられるような線香花火がいいと。そこで夜にまた同じ場所で会うことになった。花火は僕が用意することになり、一旦別れた。
 辺りが薄暗くなりつつある頃、約束の時間よりも少し前に到着していた彼女は、僕の姿を見つけた途端に弾けるような笑顔を見せた。出会ってから何度も彼女の笑顔を見たが、この日のそれは一段と眩しかった。松葉杖で思うような速度で近づけない自分がもどかしかった。
 そしてすぐに僕らだけの小さな花火大会が始まった。
 出来るだけ間を開けずに次々と火を着ける。立ち込める火薬の匂いがどことなく心地よい。白い煙が滑らかな絹のように僕らを取り囲み、夜を艶やかに染めた。手持ちの花火から赤や黄、緑の光が吹き出し、そこに波の音と僕らの笑い声が優しく重なった。
 それでも僕の心には全く別の気持ちも横たわっていた。
 数日前の帰り際、次の日の約束を何となく交わしたとき、彼女から週が明けたらここを離れると告げられた。本当はもっと早めに帰る予定だったのを、これでもぎりぎりまで延ばしたらしい。
「本当に?」
「うん。そろそろ新年度の準備もしないといけないし。健太も夏休みもう少しで終わりだよね」
「ああ」
「ゴメンね。もっと早く言うべきだったよね」
 僕は次の言葉をつなぐことが出来ず、彼女が浮かべる寂し気な表情をどう受け止めたらいいのかを考えていた。心は航路を失った帆船のように不安定に揺れ、吹き抜ける風が先ほどよりも冷気を含みだしたとか、松葉杖を握る感触がいつもと違うだとか、そんな感覚が鋭敏になったようで、結局僕はいつの間にか訪れた夜に包まれたまま、その場に立っているだけだった。
 そしてあっという間に彼女がここで過ごす最後の日が来た。
 目の前には美しい花火と楽しそうにはしゃいでいる新元夏海の姿がある。これだけで充分なはずなのに、そのすぐ後ろに見たくないものが見え隠れしていた。現実的に考えて、別れの日が来ることは随分前から心のどこかで分かっていた。しかし敢えて現実に目を逸らしては、僕らの夏はずっと続くというお伽話を頭の中で膨らませていただけだ。そして尚もそのお伽話にすがっている。
 もはや僕が新元夏海に恋していることは疑いようもなかった。ここまで胸を焦がす思いは生まれて初めてだった。このまま彼女と花火がしたい。彼女と過ごす時間をこれからも続けたい。もっと外国のことや将来のことを語り合いたい。そして出来ることなら、僕は彼女に触れたいと思った。
 やがて持ってきた花火のほとんどが暗闇を彩り、最後に線香花火が一本残った。
「はい。じゃあこれ健太が持って」
「でも、夏海がしたいって」
「いいの。一緒に見られればそれで」
「……」
 その声にそこはかとない切なさを感じたが、この期に及んでも真意を問う勇気がなかった。僕の思い過ごしかもしれない、そんな曖昧な解釈でその場を逃げた。
 砂浜に並んで座り、線香花火に火を着けた。持ち手の部分を揺らさないよう風の向きにも注意を向けた。小さな火の玉の周りに、繊細な線の火花が、静かな破裂音と共に弾け、一層その場に趣を与えていた。最初は控えめだったが徐々にその激しさを増した火花は途切れることなく、しかも瞬きよりも早くその形を次々と変化させていく。同じ形が現れることはない。まるで流れ続ける時間を具現化しているようだった。
「明日、本当に帰っちゃうんだな」
「うん」
「忘れてたよ。そういうときが来るってこと」
「……うん」
「俺、見送りはしないから」
「え?」
「見送ると二度と会えなくなる気がするんだ」
「……」
「また会おうよ。世界は想像しているほど広くないんだろ?」
「うん、そうだね」
 そう言って彼女はそっと僕に身体を寄せた。
 線香花火の終わりが近づいていた。先ほどまでの火花の勢いが弱まり、大きくなった火の玉が自分の重さに耐えられなくなったのか、そっと軸から離れ、周りに吸い込まれるように消えた。
 静かに夜が舞い戻る。雲のない空に細い月が浮かんでいるが、その光は周りを照らすほどの強さはない。そして目の前に現れたのは、夜空に広がる無数の星だった。ダイヤモンドをちりばめたような圧倒的な美しさに息をのんだ。星を線で結び、いくつもの物語を作った古代の人々への尊敬の念が自然に沸き起こった。
 そのとき、「それじゃ、これは健太と私の約束のしるし」と僕の耳元で彼女の囁きが聞こえた。鼓動が一つ大きく打ったかと思うと、唇に生温かく濡れたものが触れた。彼女の唇だと理解するのに多少の時間を要した。その感触が僕を甘く刺激する。初めての異性との口づけに、肉体がゆっくりと弛緩していくと同時に、感覚は鋭敏になり、例えば血液の流れさえも実感できるようだった。全身が何か柔らかいものに包まれている感じがして、心地よい抵抗感があった。僕はその感覚に身を委ねる。
 そっと彼女に触れてみると、身体が少し震えているようだった。手のひらに彼女の体温が伝わってくる。日中の日差しの名残が微かに感じられた。
 どれくらいそうしていただろう。彼女がそっと僕から離れ、大きく息をついた。
「キス、しちゃったね」
 彼女の声に恥じらいと安堵が混じっている。まだ鼓動が収まらないまま黙ってうなずくと、彼女が不意に立ち上がり、波打ち際まで歩いて行った。
「ねえ、これだけ星があるんだから、流れ星とか見られないかな」
「流れ星?」
「そう。願い事したいの」
「願い事って?」
「それは秘密」
 楽しそうに夜空を見上げる彼女の後姿を僕は見つめている。
 異性に触れた高揚感と同時に、大きな寂寥感が押し寄せていた。特別な時間が過ぎるほど、彼女との別れが迫っていることを実感せざるを得ない。こうしていられるのもあとわずか。数時間もすると彼女が機上の人となっている。再会の約束をしたものの、それがいつ実現するかは不明だ。僕の中で再び地球が膨張していく。自分から言い出したにもかかわらず、水平線の向こうがどんどん遠ざかっていく。
 もし可能なら、僕は迷わずに時の流れをせき止めるだろう。新元夏海と過ごしたその時々を瞬間冷凍のように保存して、再び解凍されないように厳重に鍵をかけ、心の奥底にしまい込んでおくだろう。夏に日差しを浴びて溶けてしまわないように。
「夏海、初めて会ったときのこと覚えてる?」
「うん」
「夏海は水平線に向かって歌ってたんだ。初めて聞いた曲なのにどこか懐かしい感じだった」
「ああ、あれね」
 彼女は恥ずかしそうに微笑んで、祖父の新元新平が昔書いた詩を何度も読んでいるうちに出来た歌なのだと教えてくれた。
「もう一度聞きたいんだ」
「え、今から?」
「ああ」
 本当にそう思った。その曲を覚えたかった。そうすることでお互いの繋がりが保てるような気がしたのだ。海を越えて二人しか知らないメロディを共有すれば、それで地球を狭く出来る。
 恥ずかしいからと最初は拒んでいた彼女も、やがて僕と同じことを感じたのか、そっと姿勢を正し、大きく深呼吸をして僕に背を向けた。少し離れたところに彼女の細いシルエットが浮かび、優しく吹く潮風を浴びていた。その向こうに深蒼たる太平洋が広がっている。穏やかだった波は更に静けさを増し、周囲は音を失った。鼓動までもが聞き取れるほどの静寂が訪れた。僕は心のざわめきを懸命に抑える。この一度きりのコンサートを聞き逃すまいと誓った。
 やがて彼女の伸びやかな、そして美しい声が響く。

 青空の鏡
 世界を覆う不思議な鏡
 空と海が重なる場所で地球の色をすくい取る

 青空の鏡
 世界を覆う不思議な鏡
 映っているのは地上に宿る想いや記憶

 それは多くの命が抱いた地球の記憶

 私は問いかける
 命の意味、生の意味、死の意味
 誰に聞いても分からない、答えなんてない
 だから人は答えを求めて航海を続ける
 やがて答えを見つけ、魂はその役目を静かに終える
 永遠に続く命のリレー

 心の中に風が吹き
 まだ見ぬ君との出会いを待ち侘びる
 聞こえていますか
 届いていますか
 この声が君の許まで
 そこにも青空の鏡はある
 太古の昔よりそこにある
 青空の鏡に映る君住む街は
 どんな表情を見せてくれるのだろう

 私の瞳に君が映る
 すべての想いを受け止めながら
 今日も青空の鏡

 そしてコンサートは静かに幕を閉じた。
 僕の心は静かに波打っていた。圧倒的な力を注入されたような気がした。全身が引き締まる感覚で、心なしか呼吸も荒い。
 息を潜めていた海が、自分の使命を取り戻したかのように本来の姿に戻った。寄せては返すその反復が、彼女への喝采に思えた。
「健太、ミューに伝えて」
「え?」
「ありがとうって」
「……ああ」
 それから僕らは長いこと黙った。彼女は海の方を向いたままだ。恐らく同じ気持ちだったのだと思う。別れの言葉を言うつもりはない。それは永遠を意味するから。しかし他に言うべき言葉が見つからない。だから沈黙するのだ。それこそが僕らの暫しの別離の儀式なのだから。
「あっ」
 彼女が空を指さして叫んだ。
「見た?……流れ星」
「本当に?見逃したよ。何かお願いした」
 そう聞くと彼女はゆっくりと振り向いた。そこには笑顔が浮かんでいた。涙の後は夜気が上手に隠してくれた。
「……それは、秘密」
 彼女は心なしかうるんだ声で答えた。それを聞いた僕も相好が崩れる。あのときの僕らの笑顔は、夜空に広がる星座よりも輝いていたに違いない。

 次の日、新元夏海はこの町を離れた。
 彼女に言ったとおり、僕は見送りに行かなかった。
 こみ上げる悲しみは未来への希望で閉じ込めた。
 そうすることで必ず再会できると思った。
 そのとき、どんな僕でいるのだろう。
 そのとき、どんな彼女でいるのだろう。
 そして、それはいつ訪れるのだろう。

 海が蒼い。風が穏やかに吹き、二羽の鴎が楽しそうに飛んでいる。遠くに見える漁船、数本の釣竿を立てる釣り人、波の囁きを聞きながら語り合う恋人たち、波と戯れる家族連れ。……いつもと同じ海辺の風景。しかし、時の流れと共に季節も移り変わる。
 十五の夏が、終わろうとしている。(了)

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