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#21 「18.44m」 (1/6)

 大詰めとなりました、南海ホークス対西鉄ライオンズの六回戦。ここ大阪球場は熱気に包まれております。九回の表を終えて1対0とホークスのリード。ホークス先発は三年目の外ノ池卓司、ここまで散発五安打と安定した投球を見せております。このまま虎の子の一点を守り切ることができるか。
 対するライオンズ、九回裏の攻撃は四番のポインターから。先ほどの打席でフェンス直撃の二塁打を放っておりますが、ライオンズこれが今日唯一の長打です。まずはここで逆転への足掛かりを築きたいところ。
 ピッチャーの外ノ池、ここを押さえればプロ入り初完封となる大事な場面。マウンド上右手をぐるぐると大きく回す格好も既にトレードマークとなりつつあります。

 さあサインも決まり、大きく振りかぶって第一球を投げた……。

「おじいちゃん……、ねえ、おじいちゃん」
 孫の拓海の幼い声に導かれ、私はまどろみから覚めた。私は青いペンキの剥げかけているベンチに腰掛けていた。日の光が思いのほか眩しい。目の奥が鈍く痛むので、指でまぶたの奥を軽く押さえた。それで幾分はほぐれたような気になる。
「おじいちゃん、寝てたの?」
「寝てた?おじいちゃんがか?」
「うん。いびきかいてた」
「そうか。寝てたか。……いかんなあ」
 目を何度かしばたいて、私は頭の中にかかった靄を払った。時間差で意識が戻る。そうだった。孫との散歩で中島公園に来ていたのだった。途中で休憩しようと思い、そのまま眠ってしまったらしい。拓海が覗きこんでいる。今年で五歳になる孫の、まだ地に着かない小さな足がブラブラと交互に揺れていた。   
 中島公園は繁華街から少し南に下ったところに位置し、長いこと市民の憩いの場として親しまれてきた。敷地内に大きな池や広い芝生、そしてコンサートホールなどがある大きな公園で、休日には多くの人々の姿が見られる。この日も陽光をめいっぱい浴びた公園の緑が、自らの生命の力を誇示するように鮮やかだった。
 私がここに来るのはほぼ日課だ。時には一人で、時にはこうして拓海を連れて。自宅から近いというのが最大の理由だが、以前に別の場所に行ったときに、帰りに道に迷ってしまったことがあり、それ以来、馴染みのない場所に行くのは気が引けた。
「ねえおじいちゃん、アイス食べたい」
「よし。じゃ食べるか」
「やった。僕、チョコアイス」
 跳ねるようにベンチから降りると、拓海は先を急ぐ。家では甘いものを厳しく制限されていることもあり、どこで知恵をつけたのか、母親の目の届かない場面ではこうしてねだってくる。私にとってはそれが何よりも嬉しい。以前はよちよちと覚束なかった足取りも、いつの間にかしっかりとしてきた。あの小さな身体が日々劇的に進化している。その躍動感に圧倒される。
 それに比べてというのもおかしな話だが、私はここ数日どうも調子が悪い。口の中が粘つき、気分もすっきりせず、特に左膝の状態が余り良くない。歩くたびに何かが引っ掛かったような感じでギスギスする。医者に診てもらうのも面倒だし、仮に診てもらったとして、他に何か良からぬ箇所が見つかったりすると、それはそれで何かとややこしい。
 公園内にある大きな池の近くにある売店で、チョコレート味のアイスクリームを買った。拓海は目を輝かせ、スプーンを不器用に扱いながら食べ始めた。私は安物の腕時計で時間を見て、夕食まではまだ時間があることを確認した。
「これ食べても、ちゃんと晩ご飯食べるんだぞ」
「うん」
「美味しそうだな。ほら、おじいちゃんにも一口くれ」
「いや」
「……」
 辺りを見回すと時間が静かに流れていた。目の前の水面が微かに揺れている。その動きに呼応するように、光が不規則な方向に反射していた。マガモの親子がのんびりと横切る。池を手漕ぎの貸しボートが二台ほど浮かんでいる。一台は親子連れ、もう一台は若い男女が楽しそうに語らっていた。
 若い頃の夢を見るのは久しぶりだった。もう四十年以上も前、私が現役のプロ野球の選手だったときの頃の話だ。懐かしさといった類の感慨はない。華やかであればあるほど、そして鮮明であればあるほど私を陰鬱とさせた。まるで透明な水に落とした一滴の墨汁が拡散していくように。目立ちはしないが、かと言って容易に無視もできない思いに、思わず奥歯を噛み締める。
「おじいちゃん?」拓海の声で、私は再び現実に引き戻された。
「どうしたの?変な顔して」
「変な顔?おじいちゃんが?」
「うん。こうやって」拓海が眉間にしわを寄せ、口をすぼめる。
「何だそれは」
「おじいちゃんの顔」
「は、そんな顔してるのか」
「してるよ。さっきからずっと」
「いかんなあ」
 拓海の口元は焦げ茶色に塗りたくられ、シャツの襟もともかなり汚れていた。本人はご満悦な様子ながらも、帰宅後の拓海の母親、つまりは私の娘の貴子の怒りを思うと笑ってもいられない。何しろ最終的に矛先はこちらに向けられるのだ。なぜちゃんと見ていなかったのか。なぜ食事の前に食べさせたのか。
「さあ戻ろうか。ママ、そろそろ帰って来てるだろ」
「おじいちゃん、またアイス食べたい」
「そうだな。また今度な」
 この街の春の訪れは遅い。五月の連休が過ぎた今頃になってようやく木々の葉が芽吹き、それから一斉に花開く。待ち侘びた分、その様子は賑やかで、ある意味で目まぐるしくもある。
 拓海が私の手を取った。小さな感触が手のひらに伝わった。ゆっくりと歩いて帰路につく。孫の衣服が汚れている。家に着いたらすぐに着替えさせよう。貴子には私から言わねばならない。言い訳など何もない。ひたすら謝るだけだ。私もその前に髭を剃り、小ざっぱりしたほうがいいかもしれない。無意味と知りつつ、私はそんなことを考える。

*****

 マウンド上の外ノ池、あっという間にポインターを追い込んで完封勝利まであとストライク一つ。堂々としたピッチングに、ライオンズ打線は手も足も出ません。今日勝てばホークスの連敗は3でストップ。さあライオンズはここで一矢報いることができるか。
 キャッチャー野村のサインにうなずいた外ノ池、第三球目を投げた!
 空振り三振!やりました!南海ホークスの勝利です。
 外ノ池卓司、プロ入り初完封で無傷の四連勝。選手一人ずつと握手を交わしております外ノ池、今シーズン、不調に喘ぐチームに一筋の光となりますでしょうか。大阪球場に訪れた少ないながらも熱心なファンが、新エースの誕生に歓声を送っています……。

 ワックスを塗ったばかりの廊下に、業務用の巨大な扇風機が勢いよく風を送っていた。淡緑色の透明な四枚の翼が高速で回ると大きな円に見える。カラカラと気になる音がするのは、扇風機自身が古いからだろう。
 今日の現場はスナックや居酒屋などが入っている雑居ビルだ。廊下にこびりついた汚れを丹念に落としてから、モップに染み込ませた青い液体ワックスをまんべんなく塗る。モップはずっしりと重く、腕がすぐに悲鳴を上げた。作業着の下はすぐに汗だくだ。石油のようなワックス独特の匂いに後頭部付近が鈍く痛んだ。やはり還暦を過ぎた身体には重労働だ。
 私がこの仕事を始めて二年ほどになるだろうか。同居させてもらっている立場上、少額ながらも家に生活費ぐらいは入れなくては申し訳ないとの思いがあるからだ。貴子はそんなことしなくてもいいと言う。自分も働いているし、別れた元夫から養育費をもらっているからと。例えそうだとしても女手一つで子供を育て、更に私のような者まで抱えるのは負担が大きいに違いなく、親である私がそこに甘えるわけにはいかなかった。
「あのさ、お父さん」
 散歩から帰って来た日の夜、貴子が風呂上がりの濡れた髪を乾かしながら言った。口調から小言だと解る。拓海にアイスクリームを食べさせたことで散々責められた後だったので、またかと少しうんざりする。
「余り拓海を変なとこに連れてかないでよね」
「どういうことだ?」
「最近、あの辺って物騒らしいって。タチの良くない連中がたむろしてることがあるんだってさ」
「そんなのいなかったけどな」
「今日はたまたまそうだっただけじゃない。お父さんはいいとしても、もし拓海に何かあったらどうすんの?責任取れんの?」
 いつからか貴子の話し方は女房の静江にそっくりだ。離婚してからそれが顕著になったような気がする。
「あのね、絶対に行ったらダメと言ってるんじゃないの。あれだけ人が集まる場所だから、滅多なことがあると思えないけどさ。でも用心に越したことないでしょ。勿論、拓海だけじゃなくてお父さんも。あそこ、よく一人でも散歩してるんでしょ?」
「……」
「それにビル清掃の仕事だってさ、あんなしんどい仕事、お父さんがすることないじゃない。何であんなことしてんの?すぐに身体壊すって。もういい歳なんだから、おとなしくしてればいいんだって。それに」
「もういい。わかった」
 一方的に話を打ち切り、私は逃げるように自室に戻った。
 ひんやりとした空間の隅にある小さな仏壇の前に座る。真ん中で妻の静江が静かに微笑んでいた。昨日と同じ表情で。そして明日も同じ顔をしているのだろう。こいつだけ時間が止まっている。この先、私だけがどんどん年老いていく。
「なあ静江。最近の貴子は、すっかりお前に似てきたな」
 発せられたつぶやきは、そのまま力なく黄ばんだ畳の上に着地した。

 細かな雨が降ってきた。上空はまだそれほどでもなかったが、西の方角を見ると青黒い雲が存在感たっぷりに控えている。夜には本降りになるかもしれない。湿度が高いとワックスが乾きにくくなるので、その点が心配だったが、まあこのくらいなら何とかなるだろう。
 軽く咳き込む。喉の奥に絡んだ痰を携帯したティッシュペーパーに含ませる。そんなことを一日に何度も繰り返していると、作業着のポケットは丸めたティッシュペーパーですぐに膨らんでしまう。以前、作業着の中のティッシュを取り出し忘れたまま洗濯してしまったことがあった。以来、私は洗濯機に触れることすら許されなくなった。
 遠くに札幌ドームが見えた。周辺にさほど大きな建物がないこともあって、銀色の光沢とやや扁平な半球の形状がひときわ異彩を放っていた。あの形は何かに似ている気がする。そうあれだ。何とかっていう生き物。喉元まで出かかっているのに思い出せない。名前は何て言ったか。頭の中にあるはずの答えがぼやけている。自分の老いがまた進んだような気になる。
「カブトガニ、やろ」
 背後からの突然の声に反射的に振り向いくと、私よりも年上と思われる男が立っていた。白髪は豊かだが寝ぐせで毛先があちこちに散らばっていた。鼠色のくたびれた背広に、藍色のネクタイは結び目が曲がっている。
「カブトガニの甲羅や。タクさん」
 私は目を凝らして目の前の人物が誰かを考えた
「久しぶりやな、タクさん」
 漠然と嫌な予感がした。私を「タクさん」と呼ぶのは、「あの頃」をよく知っている人物だ。墨汁が一滴、胸の中でゆっくり広がっていく。
「俺や。溝内。溝内義郎や」
 記憶の断片が意思とは無関係につながり、あの漠然とした嫌な予感は、この瞬間にしっかりと形を成した。私はどうしたらいいのか解らず、ただその場に立ちすくんでいた。(続く)

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