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①関釜裁判のはなしとわたし

昨年の春、急に史学科の先生が研究室に訪ねてきて、研究プロジェクトを立ち上げるからいっしょにやろうと言われたとき、正直、一瞬たじろいだ。

「慰安婦問題」

関心がないわけではないし、自分なりの考えがないではない。けれど、ものすごく「めんどくさい」。この「めんどくさい」というのは、時間がかかるとか手間がかかるとかいうより(もちろんそれもある)、この問題について発言する人びとを見ていると、なんだかみんな傷だらけで、「炎上」だの「訴訟」だの、どうも血なまぐさいのだ。

ましてや、ここは韓国で、わたしは日本人。炎上リスクはマジョリティとは次元がちがう。なにしろ国に許可をもらって住んでいる身である。じっさい、こういうテーマにかかわっていると日本人の知人に言うと、たいていは一瞬、たじろぐ。そんで、「戦争はよくないよね」とかいう一般論に落ち着かせようとしたりする。語学教師の集まりでは、授業で「歴史問題に触れるな」とマニュアルみたいに言われたこともある。

世の中には「日本人はまったく反省していない」といきまく人もいるし、「慰安婦なんて嘘だらけの言いがかりだ」と振り切ってる人もいる。この問題についてものを言うと、要するに、そのどちらかだと思われがちなのだ。どちらも主張が角張っていて、断言口調で、説教される気がする。どっちにしろそういう連中にはかかわりたくない。その気持ちはよくわかる。

そしてそのことが、このテーマで、めったなことは言えない空気をつくっている。「〇〇問題を切る」とかいう威勢のいい人の言葉ばかりが目立つ。考えをまとめるひまもなく、デモだの裁判だのに動員されそうになる。礼儀正しいふつうの日本人はこういう、センセーショナルで感情的になりがちなテーマから距離をとる。意見や立場の違いが、かならずといっていいほど、人格攻撃や罵倒の応酬に発展する。しかも、何をどう述べても、だれかが怒る。このことが、わたしを含めて「めんどくさい」理由だろう。

史学科の先生は、「日本語の資料がたくさんあるが、日本語のわかる研究者がいない。参加してくれると助かる」と言う。うちの学科(日本語日本文学科、日本人はわたし一人)のほかの先生もやらないらしい。少し考えてから返事することにする。

プロジェクトの内容は、金文淑(1927-2021)という一人の女性運動家の生涯と、かのじょが関わった、「慰安婦」と「女子勤労挺身隊」が日本政府に謝罪と補償を求めた裁判、「関釜裁判」(正式名称は釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求事件)に関する資料の目録化、つまりアーカイヴの作成だ。日本でやった訴訟だから、当然、裁判関係の書類はすべて日本語だ。

やや考えてから、やりますと返事した。めんどくさいのは確かだけど、断ったとして、自分がやらなかったせいで日本語の妙な解釈や、結果がかたよった中身になるのを見ることになるとすれば、もっと耐えがたいにちがいない。そう考えたからだった。こういうテーマにかかわることで、キャリアに妙なレッテルや色づけがされることも考えないではなかった。でも、そんな度量のせまい連中は相手にしなければよい。それが、2022年の春のこと。

現在、2023年の2月。去年の秋にプロジェクトは最終報告書を提出して終わり、今月からこれをテーマとする展示が始まった。2月16・17日には展示のオープニング記念セミナーが開かれ、盛況だった。わたしも発表した。そんなこんなでひと段落して、これまでのいきさつや、関釜裁判のこと、それから、慰安婦問題の現在のはなしを、ちょっと書いておきたくなった。それが今である。めんどくさがりの日本人が、はばかりながらこっそり書くので、その点ご理解を乞う。






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