見出し画像

ある人の記憶

韓国という国にかかわるようになってずいぶんたつけれど、そのあいだにはぼくをこの国の言葉や文化へと導いた人がたくさんいる。そのなかには大学院の指導教授や、そのときどきに出会った韓国人留学生、あるいは、現地で出会った学生たちなんかも含まれる。もう30年くらいのつきあいになる人もいる。

そんな人のなかに、一人の女性がいる。

その人は、ちょうど30年前の1994年3月、22歳で大学4年生のぼくが日韓文化交流基金の学生訪韓団の一員としてはじめて韓国に来たとき、その団体に通訳として同行していた。通訳は男性と女性のふたりがいて、そのうちの女性のほうだった。流れるようにきれいな韓国語を話す、すらっとした美人だった。言葉のシャープさと、笑ったときの人懐っこい表情のギャップが魅力的だった。計算してみると、彼女はそのときたぶん26歳で、ソウル大学を卒業して就職した商社をやめ、通翻訳の仕事を始めて2年目くらいの若手通訳だった。男子大学生にとって、まぶしすぎるお姉さんだ。

学生訪韓団といっても、学生たちがどれくらいまじめな気持ちで参加していたかはあやしいもんで、タダで海外旅行ができると聞いてほいほいついてきたやつらが、まあマジョリティだった。今となっては信じられないかもしれないが、1990年代、大学にいても韓国に興味があるやつに出会うことはほとんどなかった。「韓国語って、中国語とは別にあるの?」と言うやつさえいた。それに、20代前半の男女が2週間もいっしょにホテル暮らしをするわけで、ちょっとした恋愛リアリティ・ショーみたいに、おさかんな話もあった。あのふたり、昨日の夜いなくなってたよね、みたいな。

そんな雰囲気ではあったけれど、なかにはわりときまじめに韓国のことを知ろうとする学生もいて、どっちかというとぼくもそっち側にいた。見るものも食べるものもすべてがめずらしく、それまでの日本の当たり前が崩れていくのを感じていた。

彼女は、そんなぼくらの様子を見守りながら、とてもスマートにふるまっていた。シャープな韓国語で、日本人の客にやや法外な値段をふっかけてくる東大門や明洞の商売人のおばさんたちとも、バチバチにやりあっていた。ふたつの世界を自在に行き来するすがたは、かっこよかった。

彼女の名前は、小島ミナ。昔のものをほうりこんである箱をあされば、もらった名刺が今もあるだろうか。いっしょに撮った写真もあるだろうか。

少しだけ自意識を盛っていいなら、訪韓団の期間中、ミナさんもずいぶんぼくをかわいがってくれた。韓国留学をすすめてもくれた。慶北大学で日韓の学生でパネル・ディスカッションをやったときは、ぼくが日本側の司会で、ミナさんが通訳だった。前日にはふたりで打ち合わせをした。

訪韓団は釜山の金海空港で解散し、東京、大阪等に帰る日程で、お別れのとき、ミナさんはぼくに写真をくれた。そういえば、彼女は街の写真屋にフィルムを預けにいくとか言っていたが(若者よ、写メもLINEもインスタもない時代の話だ。)、それがその写真だった。昌徳宮かどこかの柱の前で、ガイドさんの説明を聞いているぼくの横顔がうつっていた。メッセージも書かれていたような気がする。言ってみりゃ盗撮だけど、彼女は初めて韓国を経験する学生たちの、その初めての時間と表情をフィルムにおさめて、プレゼントしていたのだった。その写真も、どっかにあるかな。

それ以来、ミナさんとは一度も会ったことがない。たまに、韓国の取材をしたテレビ番組なんかで、通訳やコーディネイターとしてクレジットされた名前を見かけたりしてうれしくなったけど、彼女の連絡先は知らないし、そもそもそんな団体の一学生のことなんかおぼえてないだろう、そう思っていた。検索してみたら、ミナさんは韓国語の単語帳なんかも出している。あれからもずっと20年くらい、彼女は韓国語にたずさわってたんだな、と思う。

ぼくは今、韓国に住み、ときおり通訳なんかも頼まれてやり、翻訳書も出した。世間的にみれば韓国語ができる人間になったぼくが、いまも思い出すのは、あのときのミナさんの、流れるようにきれいな韓国語だったりする。ふたつの世界を自在に行き来するお姉さんの、カッコよさだったりする。そんな人と同じレベルで仕事をしたい、もう50を超えたというのに、まだそんなことを思ったりする。

だから、この本、宮下洋一さんの書いた『安楽死を遂げた日本人』を開くのが、こわい。

小島ミナさんは、2015年に多系統萎縮症という難病にかかり、2018年11月28日、スイスで安楽死を遂げ、52年の生涯をみずから閉じた。彼女の選択と死までの過程は宮下さんの本や、NHKスペシャルでも取材が行われ、放送された。小島ミナの名は、このことで世間に広く知られるようになり、ぼくもそれを知ることになった。

昨日、ぼくはやっと『安楽死を遂げた日本人』を買った。文庫本まで出ているとは知らなかった。おそるおそるめくると、発症前の小島ミナというキャプションのついた、ぼくの知っているミナさんの、人懐っこい笑顔が出てくる。

なんで一度も連絡しなかったんだろう、と思う。
韓国に留学するとき、韓国で大学に勤めはじめたとき、韓国で大学院に入ったとき、博士の学位をとったとき、学生の日本語演劇を指導しているとき。
数えきれないほど日韓の若者の交流の場にいあわせて来たけれど、そんなぼくが思い続けていたのは、あのときのミナさんのカッコよさだと、なぜ伝えなかったんだろう。

伝えたからといって、彼女の病の苦痛がどうなるものでもないし、死を望む彼女の切迫感にとってはどうでもいいことだったろうし、そもそもぼくのことをおぼえているかもわからないし、連絡先も知らないし。それでも悔やまれるのは、もう伝える手段がないから、だと思う。

あのチャラかった訪韓団は意識の低い連中だったけど、そんななかの一人が20年以上も韓国に住み、いまも学生と演劇なんかやってチャラついている。日本と韓国の学生が、おしゃれカフェに行き、プリクラで写真を撮り、スキンケア商品を物色し、カラオケやらボードゲームをするのにつきあわされている。どうでもいい時間のようだけど、考えてみたらぼくたちが90年代に来たときも、そんなどうでもいい時間ばかりだった。つきあいきれねえと思うたびに、あのときのどうでもいいぼくたちのことを思い出す。「こういうことが意外と大切なのよ」というミナさんの声を脳内で再生する。

ミナさんがどう生き、どう死んだか、知るのが遅くなってごめんなさい。
ぼくもミナさんのように、だれかのきっかけになってるだろうか。
ぼくの記憶のなかで、あなたはカッコいい26歳のままですが、ぼくはあなたの享年を超えちゃいました。
ぼくは安楽死自体に賛成でも反対でもないけれど、ぼくには知りがたいミナさんの気持ちと決断を受け入れるしかありません。

だけど、やっぱり、一度でいいから、「すっかりジジイじゃん」「そっちこそおばさんじゃん」とかいうくだらない話をしてみたかったよ。
あれから韓流があり、震災があり、コロナがあり(いやコロナは知らないか)、あいかわらず日韓はよくなったり悪くなったりだけど、あいかわらず人は行き来し続けている。そのなかであなたもぼくもたしかに生きていた。今はただ、その時間がやたらとまぶしいのです。

おつかれさま。またどこかで。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?