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小説 水中花樓《スイチュウカロウ》

 この界隈には、冷たい銀糸の雨が降る。
 警察署の壁にもたれ、煙草を吸おうとポケットに手を入れかけて止める。灰色を混ぜて薄めたように、すべての輪郭がぼやけて見える。それは雨のせいではなかったから、私の眼が霞んでいるのかもしれなかった。
 狭い道路の両脇に、百日紅(さるすべり)が紅い花をつけている。その向こうで、街灯を受けた玄武門が、わずかに景色から浮き上がって見える。
 玄武門は、中華街にある他の門に比べて幅が狭い上に、チェーンのカフェや食べ物屋の並びに挟まれてひっそりと建っている。緑がかった黒い柱は、朱のそれに比べれば慎ましく見えるかもしれない。だが、金色の額に書かれた「門 武 玄」という文字は煌びやかで、柱に描かれた青や緑の丸い文様は、沼を覆う睡蓮の葉を思わせる。
 世界国旗のように上空を埋めるけばけばしい看板や、珍しい装飾の建物群など、中華街と聞いて連想する景色は、玄武門の目と鼻の先にある善隣門の向こうに広がっている。
 難破船へ向かうため、街の中心部へと続く二つ目の門をくぐる。
 昼間は地に根を生やしたようにどっしりと構えている朱の門が震え、汗をかき始める。その門の見えない根は、このあたり一帯に張り巡らされている。すべての飲食店、土産物屋、占いの館などは、地下に根を張る門たちに守られてある。
 この時間の中華街は、薄青い夜の光に支配されている。幟や看板もシャッターの中にしまわれ、昼間の人々の喧騒も食べ物の匂いも、幻だったのではないかと思われるほどだ。
 狭い路地を曲がり、香港路に入る。ここは昼間でさえ、うらぶれた遊園地の風情を漂わせている。他の店が灰色のシャッターを下ろし寝静まっている中、夜に取り残されたような明るい店の前で足を止める。あの日も私は、美しい炎に魅せられた蛾のように、オレンジ色に輝く窓に吸い寄せられていったのだ。
 横板が壁の一階部分を覆い、海賊映画の船室のように見える。それがこの店をひそかに難破船と呼んでいる所以だ。舵のオブジェでも置いてあれば似合うのだろうが、軒先からは、赤い紐で編んだ飾りが下がっている。ガラスの嵌まった木製の扉をくぐるために、少しだけ身を屈ませる。
「いらっしゃい」カウンターの中の小柄な老婆が声を掛ける。金魚鉢のような形のグラスを、緋色の布で磨いている。細い金縁の眼鏡と、見事な銀髪が照明を反射する。
「また傘を持っていなかったのかい」呆れたように言いながら老婆は、タオルを手渡してくれる。私は礼を言い、前髪から垂れてくる雫を拭った。
「荷物が増えるのは好きじゃない」寒さで痛む耳を掌で温める。店全体を満たす黄金色の光が、濡れた体を温めてくれるような気がする。
 天井のあちこちから垂れ下がる幾重もの紗の幕は、向こうが透けて見えるほど薄く、暖色の照明を通すとランプシェードのような機能をはたらく。長さも色味もまちまちの黄色の紗の柔らかい光が、部屋中に散らばる。
 顔が映り込むほど艶がかったカウンターに腰を落ち着けて初めて、目の前の時計が示す時刻に身を沈ませることができる。四角いガラスの中に入った金色の文字盤は、塩が固まったようにさび付いている。振り子は壊れているのか静止したまま動かず、二つの針だけが現役だ。
 老婆が、汗や酒の染みた薄っぺらの紙切れを手渡してくる。そこには手書きの墨で、茶を意味する中国語が記されている。
「万紫千紅」や「茉莉仙子」、「風花瓢月」などは、紙面からその淫靡な姿態が浮かび上がってくる。また「金魚茶」や「花芯牡丹」には、素朴な艶めかしささえ感じることができる。その名の響きだけで、人の体臭のように複雑な風味が、香ってくるような気がする。
「これを」私は茶の一つを指し示す。
 老婆は眼鏡の奥の眼を微笑で細めたまま頷いた。そして、カウンターの下から手品のように、グラスを一つ取り出す。これでいいかいと尋ねるように、私の顔を覗き込む。澄んだ氷から削り出したようなそれを一瞥し、「問題ない」と私は頷いてみせる。
 ここでは酒がコーヒーカップで、中国茶がバーボン用のグラスで供されたりする。だが、この風変りな老婆の趣向を、あべこべだと言って怒る客はいない。老婆は、頭の後ろ高い位置にあるこぶし大の団子を片手で握り込み、形を整えた。私を見つめながら、中国語で何かつぶやく。
「日本語で言え」
「若いっていいねと言ったのさ」しわがれただみ声に似合わない、陽気な笑い声を立てる。
「お世辞をどうも」
 老婆が手渡してきたグラスを手の中でくるくると回す。見た目だけでなく感触も、ひやりとして気持ちがいい。そうしながら、大きな自分の手を、つくづくと眺める。これで大抵の女の手は握ることができる。
 奥のテーブルで飲んでいる男たちが騒がしい。もっぱら女の話だ。今相手にしている幾人かの女たちが、それぞれどのような性質か、見た目の持ち主か。指に嵌めた宝石の蘊蓄を、一つ一つ並べ立てるように語っている。
 私の苛立ちを感じ取ったのか、湯を沸かす手を止めずに老婆が尋ねた。
「あんたも時々、女を買うのかい」
 一瞬言葉を失う。
「放っておけ」私は鋭く言った。「まったく、涼しい顔をしてとんでもないことを言う婆さんだ」
 そこまで大声を出したわけではないのに、男たちが黙った。耳元で雷でも落ちたように、見開いた目を私の方に向けている。
 私の声はとても低く、時々人をたじろがせる。留守番電話に録音された自分の声は、水溜まりに浮かんだ黒い油のようだった。その水溜まりは港にある工場の、忘れられた通路にある。
「あんたは、ああいう客が嫌ではないのか?」声を潜めて尋ねる。
「あたしは日本語を、聴きたい時にしか聴かない」老婆はにやりとした。
「それは羨ましいことだ」
 初めてこの店で飲んだ中国茶は「双龍戯(そうりゅうぎ)珠(じゅ)」だった。
 マリーゴールドと茉莉花(ジャスミン)、濃いピンクの千日紅が、一つのグラスに入り混じって咲き、真夏のデザートを思わせる。あんな風に賑々しい見た目だと知っていたら、酒か何か、違うものを選んでいただろう。この茶にちなんだ「蒼(そう)龍(りゅう)」という名の店に入ったとは、その時は知らなかった。
 カウンターテーブルに彫り込まれた、龍の絵柄を指でなぞる。睡蓮の咲く水の上を、二匹の龍が寄り添うように飛んでいる。鋭く尖った爪に、白い珠を守っている。しばらく眺めて違和感の正体がわかった。二匹とも角がないのだ。
 日本で見かける龍は威圧的に眼を怒らせながらも、天上のものらしい気品を感じさせる。が、この龍たちからはむしろ、地の底を這っているような世俗的な匂いがした。
 獲物を追い詰めたように卑しく歪まれた口元からは、生臭い牙が覗いている。一匹がその罪深い、長い舌をだらしなく伸ばし、もう一匹の手の中にある珠を慈しむように舐める。
「これがあたし、これが彼」愉しそうに老婆は言い、グラスを渡すように合図する。
 カウンターの奥で酒を作っている若い男がこちらを見た。白い艶やかな、それでいて引き締まった頬をしている。私をちらりと見、老婆に目配せをする。
 皺の寄った柔らかい老婆の喉を、男の視線がゆっくりと舐めていく。老いた皮膚に硬く突き出た骨の上を、男は執拗に往復する。
 野原を焼き尽くす炎のような熱が、私の場所まで火の粉を飛ばす。私はちりちりとする手の甲を擦った。
 男が手元に目を落とした時の、伏せた睫毛の形まで想定しているような、ナルシシズムは目に余る。が、当の老婆は私のグラスに湯を注いで温めながら、椿の実のように頬を紅潮させている。薄暗い店内でもそれがわかる。
 酒を作り終えた男が近づいてくる。おもむろに口を開け、私に向かって大きく舌を伸ばした。先の尖った、熟れた柘榴色の舌に、鯛の目玉の大きさの真珠が載っている。
 奪ってみろと言わんばかりに、男は舌を左右に揺らせる。そして私の目を見たまま、真珠を素早く口の中にしまい込んだ。独占欲と軽侮に輝くその眼は、なるほどテーブルに彫られた龍そっくりだった。老婆がグラスの湯をこぼす。黒い袋から工芸茶を取り出し、グラスの底に横たえた。苔玉のように暗く卑屈に丸まっている茶葉は、私の目に愛らしく映る。
 上から細く注がれていく湯によって、束の間の眠りから少しずつ目を覚ますように、小さな気泡がぱらぱらと水面に生まれ出る。茶葉の周りから、明るい錆色が溶け出してくる。
 先端を丸めた内気な茶葉が、湯の中に小さく手を伸ばす。と思うと、茶葉の中心から白い茉莉花のアーチが音もなく弾け出た。アーチの根元では橙色のユリが、斑点模様の透けた花弁を広げている。
 すべては瞬きの隙間の出来事だ。思わず息を吐くと老婆は、玄人の手品師よろしく恭しく礼をした。
「仙女献花。女性の美しさを称えるという意味だ」
老婆の工芸茶が手製のものだと教えられたのは、二度目に訪れた時だった。
 茉莉花の香りをつけた白茶の茶葉と、装飾となる花とは糸で結び付けられている。丸い玉になるようにさらに縛り、乾燥させる。湯を注ぎ入れるまで、花は茶葉の中に隠れて見えない。身振り手振りを交え、老婆はそう説明した。

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 飲んで味わうのに加え、鑑賞の目的で作られたこれらの花茶を総称して工芸茶、また水中(すいちゅう)花(はな)籠(かご)という。
茶葉に使われている白茶には、緑茶や紅茶のような渋みがなく、案外に飲みやすい。グラスを傾けると、茶に浮かんだ茉莉花が唇に触れる。甘いメンソールの香りが喉を湿らせる。
ガラスと水の屈折のせいだろうか、底に敷き詰められた茶葉のベッドの上で、花たちはくっきりと色鮮やかに見える。黄金の茶の中で透き通る花弁を眺めていると、花は本来、水に棲むものなのだとさえ思われてくる。
茶葉を結んでいるという糸はどこにあるのだろう。老婆の結び方がうまいのか、グラスを別の角度から見ても、それらしいものは見当たらない。深い色をした茶葉と、その中央に宝石のように据え置かれた花とは、まるでたった今芽を吹いた一つの植物であるかのようだ。
カウンター奥の壁を占める作りつけの大きな棚には、高校の理科準備室のように、様々な形のグラスが所狭しと並んでいる。
店の薄暗い照明の元で飾るには、深海から採ってきた珊瑚の死骸や、投薬のために青く染まった肺の花の方が、相応しいかもしれない。だが、新しい透明な水に体をたゆたわせているのは、他でもない水中花だった。 
花々は、ついさっき水の中に浮かべられたばかりのように生き生きとして見える。ちょうど目の高さの棚にある、鮮やかなオレンジ色のマリーゴールドは、私が一週間ばかり前に飲んだ工芸茶に入っていたものに違いなかった。他に、ユリや千日紅のグラスもある。
「どこかの客が飲んだ後の茶なんて」思わず言うと、老婆は素早くシッと指を立て囁いた。
「他の客は気付かない。あんたみたいにバーに来て茶を飲んだりしないからね」喉を震わせ魔女のような笑い声を立てる。「それに、こんなに綺麗なのにもったいない」
大輪のマリーゴールドは確かに捨てるのは惜しい。少しずつ腐っているのだろうに、表面ではいつまでも色褪せない。
「あれは何」老婆はまたしても中国語でつぶやいたのだったが、なぜだか私には、その言葉の意味が理解できたような気がした。眼鏡の奥でぎらついた、老婆の瞳のせいだったのかもしれない。
 視線を追って振り向くと、扉の下三分の一に嵌められた窓から、一対の脚が見えた。マッチ棒のように痩せ細った脚だ。銀色のラメが入ったサンダルは、店の明かりをきらきらと弾いている。だがその脚だけは、時間の色に染まったように青かった。今日は月のない夜だったことを唐突に思い出す。
「客引きか」私はカウンターに向き直り、仄かに温かいグラスに手を添えた。背を向けた扉の向こうから、冷気が流れてくる。
「あんたを待っているんじゃないか」まだじっと外を見ている老婆が言い、はっとして見ると、ふくらはぎから下だけの脚は、はっきりと意思を持ってこちらに向けられているような気がしてくる。
「ここに知り合いはいない」
「あんたが知らなくても、向こうは知っていることだってある」そう言って老婆は、短い午睡から意識を揺り起こそうとするように、ぶるっと肩を震わせた。
「この界隈じゃよくあることさ」老婆は外に目を向けたまま、何かの酒をあおった。二本の脚は、辛抱強く私を待っている。
 私はゆっくりと扉を押し開けた。背後から蜂蜜のように溶け出した店の明かりが、外にいる人物の生身の肉体を照らし出した。青い脚が幻であって、現実の光に掻き消えてしまえばいいという私の期待は、裏切られたようだ。
 
濡れた石畳の上に立ち、中国人の少女は自ら発光しているかのように見える。
化粧気のない肌は蝋のように白く、瞳の色も同じく薄い。しかし最も目を引いたのは、すっかり色が抜け銀色になった髪だった。
まだ十代後半らしい少女の、ぴんと張った頬に流れる銀髪は、不自然以外の何物でもない。だが彼女の姿は、彩度を欠いた今夜の私の景色にすんなりと溶け込んでいた。非現実的な銀色の髪から、乾いてひび割れた唇に至るまですべてが。
 雨は止んでいたが、丈が腿の中間までしかない少女の白いワンピースは、濡れて肌に張り付いている。布の上からでも、彼女がとても痩せていることがわかった。
「そんなところで何をしている」 
彼女は乾いて血の滲んだ唇を固く閉ざし、何も聞こえなかったかのように私を見つめ続けている。まるで言葉よりも、形を持った私の体の方がよほど信用できるとでも言うように。廂(ひさし)のように張り出した長い睫毛の下で、少女の一重瞼の瞳が万華鏡の覗き穴を開いている。
私は、開けたままの扉から老婆を振り返り、視線を交わした。老婆は眼鏡の奥の目を細めたまま、微かに頷いたようだった。さっきまで自分が座っていた席が、まるで絵画の中の風景のように遠ざかって見える。黄金の茶に浮かんだ茉莉花が、瞬くように光をちらつかせている。私は店の外に出て、後ろ手に扉を閉めた。
奇妙なことに、強い光の元よりも暗い場所での方が、彼女の髪は輝きを増すようだった。近付くと、その髪が単色ではないことがわかった。
細い銀の房に、薄い紫や緑の筋が入り混じって背中に流れ、プリズムのように光を返している。耳は髪に隠れて見えない。
「私を知っているのか」答えを期待せずに再び問いかける。少女のひび割れた唇に薄い笑みが広がる。だが暗い穴の瞳は、じっと私を見据えたままだ。
止んでいた雨が再び降り出した。光る石畳に雨粒が飛び散り、彼女の銀のラメ入りのサンダルに降りかかる。
唐突に私は、その脚に火をつけてみたいと思う。炎に焙られ、脚の間から垂れてくる熱い蝋を舐めとり、その熱で舌に穴を開ける。
 私が店に向かって顎をしゃくって見せると少女は短く、だが明瞭に首を横に振った。そして何かからの庇護を求めるように、私の羊革のジャケットに上半身を潜り込ませた。
 頭の先からサンダルの留め具まで隙間なく濡れているのに、彼女の体は熱かった。私が火をつけないまでも、炎はすでに放たれていたのかもしれない。
「唇がとても紅い」少女はそう言って私の顔に手を伸ばそうとする。私は顔を引っ込め、体を離した。少女は、拒絶されることには慣れているのだとでも言いたげに、余裕のある笑みを見せた。
「私は悪い子じゃない」幼さを隠しきれない声が、私の顔を覗き込むようにして畳みかける。
「だから私を嫌わないで」

 他人が私に対し、警戒心を解かない理由は分かっている。私の顔や声から、安全な存在か否かの判断がつけられないからだ。彼らの目に、迷いが鈍い雲のようにゆっくりと過っていくのを見る度、私は相手を内心で誉め称える。
それは正しい。あなたは間違っていない。私の足元で無邪気に仰向けになり、腹を見せてくる者ほど、掌返しをするときは誰よりも早い。
 しかしどういうわけか彼女は、私の黒い油の声を不快だとは思わなかったようだ。私の目をじっと見たまま微かに首を傾げ、静かに歩み寄ってくる。私がまた突き放すのではないかと危ぶんでいるのだ。
私は身動きしなかった。その見事な髪が、静止した滝のように落ち続けながらジャケットを擦る音を聞いていた。彼女が背伸びをして、私の喉に冷たい右耳を押し当てる。まるでそこに私の声の秘密が隠されているかのように。
 彼女が顔を離し、私のジャケットを両手で握ったまま空を仰ぐ。
「これはしばらく止まないわよ」にやりと笑い、傍に乗り捨ててある自転車に近づいていく。白い脛を見せてスタンドを蹴り上げる。濡れたスカートを邪魔そうにたくし上げて跨ると、青ざめた顔が私を振り向いた。
「自分のものなのか」と尋ねると、彼女は曖昧に首を振った。
私は硬い荷台に横向きに腰掛ける。サドルも濡れていたはずだったが、少女は気に留めていないようだった。
水中に押し出されるように、音もなく自転車は走り出した。彼女は案外に脚力があり、身長のある私を乗せていても、まるで雨の中を泳ぐようにすいすいと漕いでゆく。
中国人は雨があまり好きではないのかもしれない。雲が厚く広がり、すぐには止みそうにないと分かると、サンダルを履いた白魚のような足を潔く軒先から引っ込める。売り子の声が飛ばなくなるや否や、店先に置かれた蒸(せい)籠(ろ)の蒸気も元気をなくしたように見える。
提灯型をした黄色い街灯が、ぬらぬらしたアスファルトに弱々しい火花をこぼしている。紅や翡翠色の看板が、闇の中からぬっと顔を出し、中吊り広告のように視界を走り去っていく。首元から冷たい雨が流れ込み、背中に鳥肌を立てる。彼女が何度か弱くブレーキを握り、タイヤが細く鳴いた。

取り留めない思考から我に返ると、すでに私たちは街の深い場所に潜っていた。私は、今自分がいる場所が分からなくなっていた。
 当然のことながらこの辺りの土地勘には自信があった。ここで迷うのは、自分の家の庭で迷子になろうとするようなものだ。
 私が周囲を見回している気配を背後に感じ取ったのだろう。少女がちらと私を振り向いた。口元に微笑を浮かべただけで、何も言わない。
 自転車が唐突に速度を緩め、やがて止まった。私が荷台から降りると、少女がスタンドを留める。
そこは私が知っている場所の様々な要素を、少しずつ取り込んだような場所だった。百日紅の木立が両脇にあり、間もなく明ける夜を残りわずかな力で支えている。警察署の通りによく似ていたが、看板に書かれているのは知らない煙草屋の名前だった。見たことのない翡翠色の丸い提灯が空中に連なり、通りの間を水母のように漂っている。
少女が古い建物の前に立ち、私を見ていた。水母の提灯は、この店の廂にも吊るされている。食べ物屋らしい一階部分にはシャッターが下りている。看板に四つ連なった漢字は難解で、覚えられることを拒んでいるようだ。店の二階には通りを見渡せる大きな窓があり、中華風の黒い飾り格子が嵌まっている。

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少女の後をついて、店の脇の細い通路に入る。雑草を踏むと、古い油のすえた匂いがむっと立ち昇った。両壁に肩を擦るようにして歩く。軽快な足音に顔を上げると、店の裏側に外付けされた螺旋階段を少女が上っていくところだった。
 少女は鍵の掛かっていない扉を開け、サンダルを履いたまま中に入っていく。
部屋に入ってすぐ、小さな流しがついたダイニングキッチンと、暗い洞のような脱衣所がある。奥にあるもう一部屋は、おそらく寝室だろう。
丸い食卓に置かれた銀の水差しから、少女がグラスに水を注ぐ。私は一気に飲み干し、息をついた。渡されたタオルで髪の水分を拭き取り、首筋を拭う。
「少し経ったら来て」言い置くと少女は、脱衣所の蛇腹の仕切りを引いた。服が床に落ちる音が聞こえる。
私は食卓の、三脚あるうちの一つの椅子に座った。濡れたジャケットを椅子の背に掛け、袖なしの黒のブラウス一枚になる。
電気をつけなくてもわずかに光が揺らめいているのは、カーテンが引かれていないせいだろう。キッチンの横の窓を、雨が洗っている様子がよく見える。
雨は気配を忍ばせて近づき、獲物を掌中に入れようと狙っている。水母の提灯が揺らぎ、水中に身を馴染ませている。
バスルームで少女が蛇口を捻り、雨の足音を掻き消した。

蛇腹型の仕切りを引くと、蒸(せい)籠(ろ)の蓋を開けたように白い蒸気の塊が視界を覆った。乾きかけていたブラウスが鎖骨に張り付く。浴室の扉が開け放されているのだ。
簡素な流しについた長方形の鏡は一面曇り、何も映していない。さっきまで少女が着ていたワンピースと下着、サンダルが床に脱ぎ捨てられている。
霧のごとく流れてくる蒸気の向こうに、少女の白い背中が見える。足湯をするようにバスタブに腰掛け、両手で顔を覆っている。
私はブーツを脱ぎ、バスルームに足を踏み入れた。
目一杯に回された蛇口から、どぼどぼと音を立てて湯が落ちる。バスタブは三分目まで満たされているが、それ以上増えることはない。底を覗き込むと、栓は抜かれたままだった。 
バスタブは思いのほか深く、彼女の足は底に届かずに垂れている。顔を覆った彼女の手の隙間から、きらきらと輝くものがこぼれ落ちた。
彼女の背後に跪き、手元を覗き込む。その小さな指についた小さな爪は、それぞれが別の色をしていた。エナメルのように光るターコイズや、かなめ石のグリーン、濡れたようなりんご飴の赤。
彼女はオレンジ色の爪がついた左手の中指を口元へ持っていき、くわえ込んだ。肉の骨をしゃぶるように歯を立てると、やがて捲れた薄い爪が歯の間からこぼれた。剥がれた爪は彼女の腿の上を転がりながら湯に落ち、鱗のように丸まった。
「綺麗でしょ」少女が私を振り返った。人形のような指には、血の一滴さえ滲んでいない。それどころか、剥がれた爪の場所には新しく赤紫色の爪が現れている。
真横から見ると、指の細さには似合わない厚い爪だった。雲母のように薄い、色とりどりの鱗が何層にも重なり、横から見ると厚底の靴を思わせる。雑技団の芸に使われるカラフルな面のように、剥がす度に下から新しい色が現れる仕組みらしい。
桃色、銀色、藍色の爪が新たに剥がされ、湯に落ちる。鱗は始め、湯に浮かんでいるが、やがてゆらゆらと沈んでいく。
龍の鱗は身を守るための鎧なのだと、確か老婆は言っていた。彼らは一体、何を守っているのだろう。真珠色に輝く、あの珠だろうか。少女の爪の鱗をどんどん捲っていった、一番下には何があるのだろう。
彼女の腰は小児のようにつるりとして、そこにあるべき翳りが全く見当たらなかった。代わりに白い産毛がうっすらと生えている。
「おかしい?」少女はバスタブに手を掛け、後ろへ反り返った。小さな腰骨が、薄い皮膚を破りそうに突き出る。
「いや」私は泡の立った湯面に視線を外した。
「でも少し寒そうに見える」そう言うと、少女は笑った。
湯はかなりの高温に設定されているに違いない。湯船の傍にいるだけで、背中からじっとりと汗が出てくる。蛇口の湯を確かめようと、彼女の背後から手を伸ばした。
「触っちゃだめ。すごく熱いの」少女が鋭い声を出した。
手の甲を叩かんばかりの剣幕で私を睨みつける。間近に迫った顔は柔らかい産毛に覆われ、岩陰に潜む植物のように緻密な汗を浮かべている。蒸気に当てられ色を取り戻した唇は、腹を立てた子供のように尖っている。
少女はバスタブの縁で両手を支え、天井近くの小さな窓を見上げた。磨硝子を通して、薄青い光が浴室内に降り注いでいる。湯面の揺らめきが模様となって壁や天井に映し出され、まるで水の底にいるようだ。
クリーム色のタイルに片膝をつく私の耳に、ぬるい水滴が付き始める。触っちゃだめ、すごく熱いの。彼女の叫びがこだまのように繰り返される。その短い一節が私の耳の中を、湯気の濃霧で満たした。彼女の言葉を聞き逃しそうになったのは、そのためだった。
「あなたを前にも見たことがある」爪先で湯の温度を試しながら言う。
私は聞き返すが、彼女は繰り返さない。腰を捻り、シャンプーボトルや固形石鹸と並んで置いてあるガラスの花瓶に手を伸ばす。コップを花瓶代わりに利用したのだろう。よく似たものが食器棚にしまわれていた。
蒸気の充満する浴室で、細長い茎の先についた黄色い菊の花弁は、水中花のように生き生きとして見える。少女は片手で菊の花弁を一つ手折り、湯に撒いた。まるで嫌いな伯母の棺に投げ入れるように。
哀れな菊は、湯の中で何度も溺れそうになりながら、その度にくるくると、小さな渦に巻き込まれ、やがて排水溝に吸われていった。私は名残惜しい気持ちで、菊の消えた穴をいつまでも見ていたが、彼女は無慈悲にも新しい菊を折り、再び湯の中に投げた。
薄くなっていた蒸気が再び充満し始めている。
「もう出ない?」と私は言った。飽かず湯の中を覗き込んでいた少女の表情が強張る。
「私はもう少しいる」死の舞踊を演じている菊から、目を離さずに言った。
「もう少しだけ」
 私は浴室から出ると、備え付けの棚にあった新しいタオルを一つとり、足を拭った。洗面所の鏡は、厚い雲を映したように真っ白だった。タオルの乾いている部分で拭き取ると、またすぐに曇った。
タイルの床も全体が細かい露に覆われ、つやつやと光っている。私はバスルームの扉を閉めた。
 もう一度鏡を拭うと、鼻の頭と目の下に溜まった汗が、溜め息をつくように流れ落ちていった。
「眠れないまま朝を迎えた日、黒い上着を着た背の高い人が、通りを歩いていくのを見た」扉の向こうから、彼女のくぐもった声が聞こえる。
私は流しに置いてあった外国製の煙草を手に取り、ポケットのライターで火をつける。ライム色のパッケージの、知らない銘柄のものだった。
「その人は星も見えない空を見上げて、白い息を吐くの」
 一つ吸ってしまうと、うっすらと青い煙が鼻腔から脳天へ抜けていくのがわかった。ブーツは脱いだままでいることにする。素足にタイルの冷たさが心地よかった。
「別の日、今度は昼間に、私は同じ人を見つけた」少女はそこで言葉を切り、そして続ける。
「あなたは飴細工の職人が、露店で飴を伸ばしているのを見ていた。硬い蜂蜜の塊に穴を開けて、一万六千本の絹の糸にしていくところを。立ち止まって見ている人はたくさんいたけれど、あなたはその輪から少し外れた場所に立っていた」
 口からたっぷりと煙を吐き出す。それはまだ薄く残る蒸気の中に混じり合い、グラデーションをつくる。
「私は不思議だった。その光景はあなたにとって、それが初めてではなかったはずなのに、どうしてそんなに熱心に飴細工の職人を観察する必要があるのか。そんなに食べたいのなら買えばいいのに、と」彼女はくすりと笑ったようだった。だが扉越しに伝わってくるその気配も、霧が溶けるようにすぐに消えた。
「ある時、わかった。あなたは飴ではなく、職人が素手で飴を伸ばす、その手の皮の厚さを見ていたのだと」
 煙を吐く息が途切れた。蒸気の粒を体じゅうに留めたまま少女が出てくる。私が吸っている煙草に一瞬だけ視線を置いたように見えたが、何も言わなかった。
彼女は私が使ったタオルで曇った鏡を拭い、そこに映る私の顔をとらえる。自分との相違を見つけようとするかのように注意深く。 
 少女は思いついたように洗面所を出て行く。私は二口目を吸い、濡れた流しに煙草を押し付けた。火はじゅっと音を立て、消えた。
 一番奥の間に入ると、まず目に飛び込んできたのは、部屋のほとんどを占領している大きなベッドだった。美しい襞の寄ったクリーム色のシーツが、私に手招きをする。マホガニーの背板には、睡蓮の見事な彫刻が施されている。
少女は、通りに面した大きな窓の桟に横向きに腰掛け、外を見ている。黒いアイアンの装飾が、蔦のように窓の表面を這っている。窓は外に向かって大きく押し開けられ、降り続く雨の冷気が流れ込んでくる。
剥き出しのカーテンレールには銀の輪だけが残され、寒そうに光っている。しかし少女の濡れた裸の背中では二つの肩甲骨が、昼食後の蝶のように落ち着き払って並んでいる。
私はベッドの窓側に腰掛けた。厚いマットレスに両手をつき、少女の肩を流れる銀髪を眺める。その一本一本は、月光の筋を一つ一つ縒り合わせて作ったように、照明のない部屋で光り輝いている。
彼女が私を振り向いた。左手で髪を一房掴み、尾のように振ってみせると、またすぐに窓の外へ視線を戻す。その横顔は提灯の翡翠色の光に照らされ、やはり青ざめている。
 私は注意深く言葉を選び、絞り出すように言った。「お前の髪は素晴らしい」
少女がびくりと体を震わせ、ゆっくりとこちらを向く。言葉の真偽を疑うように私の目の奥を覗き込んでいる。彼女の全身を覆っていた水滴はいつの間にか、ささくれた鱗に似た鳥肌に変わっている。
私の指はすでに、少女の銀髪に絹の滑らかさを予感している。細く柔らかい房を手で梳くと、それは彼女の体温が移ったように温かい。毛布に顔を埋めるように、私は頬を擦りつける。手を離すと、一筋も絡まることなく弧を描いて落ちる。
「私に触れないで」邪な思いを読み取ったように、黒い一対の瞳がまっすぐ私に向けられる。珊瑚色の唇がゆっくりと引き上げられ、笑みを形作る。私は標本箱の中の蝶となり、先の尖ったピンでまっすぐに心臓を刺し抜かれる。
「薊の花言葉よ」何かを顎で示す。ベッドサイドの小さな机には、浴室にあったのと同じガラスのコップが置かれていた。毒々しい赤紫色をした薊が、何本か生けられている。
「薊の棘には毒があるの」口元に笑みを浮かべたまま少女が言う。
「その毒は人間を殺すほど強いのか」
「まさか」少女はびっくりしたように私を見た。「死ぬよりもっとひどいわよ」
 少女は窓の桟から降りると裸のまま冷たい床に座り込み、ベッドの端に顔を載せた。
「あなたの仕事は?」彼女は上目遣いに私を見、黙って私の言葉を待っている。瞳の中に、純粋な好奇心を見て取り私は驚く。一息置いてから私は続けた。「警察だ」
「あぁ、あの悪の巣窟みたいなところね」悪びれない様子で彼女は言った。
私はにやりとした。「その通り」
 確かに、二つの赤い眼のランプを光らせた加賀町警察署は、それ自体が薄暮の中に潜んでいる怪物のようだ。
「私と私の同僚たちは、毎日その怪物の口を出たり入ったりする」私が真顔で言うと、少女はベッドに顔を伏せ笑い声を立てる。
私はマットレスに腹ばいになり、脇のテーブルに手を伸ばす。薊を手折ると、薬品に似た草いきれが漂った。葉の下に隠れた棘が、指の腹を刺した。現実のものではないような小さなルビーの珠が、みるみる大きくなる。少女の瞳に青い炎が灯るのを見た。私は少女の目をとらえたまま、舌先で血の珠を舐め取った。
薊の頭を寝台に撒く。花弁は音もなく無垢なシーツに投げ出され、赤紫の長い睫毛で私を見上げる。薄紫色の液がシーツに滲んだ。
薊の棘のせいなのだろうか。じっとりとした眠気が毒のように、指先から頭に、そして体じゅうを巡っていくのがわかった。
気が付くと、背中にマットレスの硬い触感がある。誰の温度も残っていない、凍り付いたベッドに、私の体が象られて(かたど)いく。両手を目の前に透かせると、薊の毒はゆっくりと着実に、私の爪を赤黒く染めていくところだった。
視界に白い靄の幕が下りてくる。少女がテーブルに近づいていく影が、その幕にわずかに透けている。彼女は、薊の茎だけが生けられたガラスのコップを手に取り、一息に飲み干す。
小さな手が私の腰の辺りをまさぐり、ポケットからライターを取り出した。撃鉄を起こす時に似た、かちりという音がする。一段と霞んでいく視界の中で私は、自分がうっすらと微笑んだ気がした。
彼女の影が窓の方に向かい、やがて煙草の匂いが流れてくる。深く満足げな溜息が聞こえる。
私がさっき吸ったものと同じ煙草であるはずなのに、彼女の吐き出す煙は私のものとずいぶん違って感じられる。悪いものがすべて取り除かれた山頂の空気のように混じりけがない。
睡魔はより強くなり、眼球の奥をぐりぐりと締め付ける。両腕は分銅を吊り下げたように重く、マットレスに沈み込んでいる。身を起こそうとすると、剥き出しの腕に鋭い痛みが走った。薊の棘だ、と気付いた瞬間に瞼が落ちてきた。
どれくらいの間眠っていたのだろう。あるいはほんの数分、目を閉じていただけなのか。
緩慢な死とは、このようなことを言うのかもしれない。麻酔を打たれたように体の内側と外側が乖離し、意識はその狭間に落ちている。眠りの縁を歩き続け、深い穴に足を踏み外す瞬間を待っている。
投げ出された私の身体の上を、舐めるように月影が横切っていく。薄く目を開けると、それは少女の視線だった。
「あなたに触れたい」囁いた彼女の喉が、すぐ傍でごくりと鳴った。
「やめておいた方がいい」唇には麻痺しているような感覚がある。
「なぜ?」
「私の姿は、私の声に似ているから。水溜まりに浮かぶ黒い油だ」
 少女は首を傾げ、そして言った。
「他に混じることができない、でも抽出された精油のようなもの。オアシスの湖の底に棲む、希少な貝のようなもの」
 彼女は水に身を沈めようとするかのように私に体重を預け、さらに深く潜っていこうとする。
「私の目にあなたは、そんな風に見える」少女は私の鎖骨に耳をつけて囁いた。冷えた彼女の体は、軟体動物のように柔らかく私の表面を覆っている。彼女の肩に手を置くと、細かな鳥肌が温められた油のように溶けた。
少女は身震いをすると、名残を惜しむようにゆっくりと体を離す。裸の薄い胸が、呼吸で浅く上下しているのが見える。視線を合わせたまま、私のブラウスのボタンに手を掛けた。
少女は一番下までボタンを外すと、私の腕を取ってシャツを脱がせる。半身不随の老人に奉仕する娼婦のように。彼女が触れた時、体の細胞じゅうが溜息をつくのが聞こえた。
水風船を押し潰したような形で成長をやめた私の乳房を、少女は下着の上からそっと掌で転がした。化粧の溶けた私の頬に鼻を押し付け、その匂いを吸い込む。
彼女は、私の中に存在しなかったはずの母性を嗅ぎ取っているのかもしれない。もし本当に私の中に母性があるなら、彼女は私より先に、それを見つけたのだ。暗闇の中で母親の乳首を嗅ぎ当てる子犬のように。
たまらなくなって無防備な脇腹をくすぐる。少女は少し驚いたように目を見開き、声を立てて笑った。痩せさらばえて浮き出た肋骨をよじり、私の横に仰向けに倒れる。黒真珠のような瞳がゆっくりと輝きを潜め、再び万華鏡の穴になる。少女は体を反転させて四つん這いになり、私の上に重なった。
少女は、私の肉の柔らかさに驚いたようだった。彼女の体に電流のような動揺が走り、それが分かった。
光る唾液が糸を引く少女の唇が、私の肩をついばむ。自分には早すぎると分かっている強い酒を舐めるようなこわごわとした仕草で、熱い舌先が私の喉に当てられる。
「美しい花を摘む時でさえ、あんなに乱暴なのに」卑猥な笑みを浮かべた私の唇を、少女はきつく噛んだ。思わず私は声を上げ、彼女を乗せたまま腹を震わせて笑った。
自分の肉体の柔らかさを教えてくれるのは、ただ他人の肉体だけなのだ。言葉にする代わりに、私は彼女の下唇をそっと前歯で挟む。少女は小さく呻き、震える瞼をうっすらと開けて私を見た。こぼれ落ちそうになる温かく塩っぽい涙を、舌先で舐め取る。
少女は私の黒い下着のストラップを外しかけ、手を止めた。まるで生きているかのように覆い広がる黒いフリルは、浅黒い私の肌にとても映えるのだ。私は右手を背後に回し、隠れた場所にあるフックを外した。 
その瞬間、彼女の目に浮かんでいた迷いは完全に失われた。私の下腹から撫でるようにショーツに指を掛け、するりと脱がせる。彼女の視線は私の全身を巡り、平らな胸に申し訳程度についている、二つの乳首で止まる。
「子供の頃、父の背に乗って水の中を泳いだ」私は天井を見たまま言った。少女が人差し指で私の右側の乳首をなぶる。始めは擦るように、硬い手ごたえを感じると突くように。私は鼻から息を吸い、溜め息と一緒に言葉を押し出す。
「溺れるのを恐れて、父に強くしがみついていた私の胸は、おかげでぺしゃんこだった。その頃、まだ膨らみなんかなかった私の胸は本当に、それ以上大きくはならなかった」
 少女が鎖骨から肩へ、撫でるようにして触れる。
「あなたはそれが悲しい?」私の目を覗き込んで尋ねる。
「いや」と私が短く答えると、少女は同意の印に微笑んだ。
「私は魅力的だと思う」
彼女は私の足元まで退き、マットレスに横顔を沈めた。一瞬だけちらりと上げた睫毛が私の目と合う。
「あなたは、私の欲望の形そのものなの。そして、ゆるしでもある」
 少女は、静かに燃える眼差しで私の脇腹や上腕を焙り、肌の表面から立ち昇る煙を愉しそうに眺めている。
「あなたが欲しがっているものを、きっと私は与えられないと思う」私はつぶやいたが、少女は返事をしない。視線を足元に向けると、彼女は恍惚の表情で私の腹の曲線をなぞっていくところだった。
小さな爪のついた手が伸ばされ、私の陰毛をこわごわと撫でる。目を瞑ったまま上下に鼻を擦り付け、匂いを嗅いだ。彼女が身動きをするたびに、髪の脂の甘やかな匂いが漂ってくる。そして桃色の薄い舌をゆっくりと伸ばし、私の芯に触れた。
少女の舌は思いのほか熱かった。先の尖った青い炎に焙られて、私は飛び上がる。彼女は私の浮かせた腰を、両手でマットレスに沈め、掴んだまま離さなかった。
少女の銀色の髪が私の腰から流れ出て、シーツの上に広がる。私の体の下で影のように染みていく汗と混じり合う。子供のそれのように汗ばんだ彼女の手が、濡れた腿の内側を何度も往復する。立てた両膝の裏から、つうと汗が滴る。
さっきまでは浅瀬と思っていたのに、私は足を掬われていた。両足が陸地を探して何度も水を蹴る。私の肩や腕や背中を、葬られた薊の棘が刺した。
空気を求めて喘いでいる私を、彼女は助けの手も差し出すことなく冷静に見ていた。掴もうと手を伸ばすと、彼女は私の腰を押さえたまま身を引く。私は波に翻弄される、小さな貝だった。
少女は小さな殺し屋のように、人の生死の境界を見極めることができるらしい。私の炎が燃え尽きる前に、体を離した。
「なぜやめるの」私は上体を起こしかけた。少女はするりと身をかわし、裸の脚を両腕で抱えた。脛の間から、膨らんだ桃色の襞が見える。
「あなたを何度でも私のものにするために」光る唇を舐め、手の甲で拭う。月影に似た街灯が、シーツに跡を引く少女の水を照らし出した。
少女がシーツに両手をつき、ベッドから降りた。台所から持ってきた水差しから、薊の茎だけが挿してあるグラスになみなみと注ぐ。彼女はさらに水差しを垂直に傾け、グラスからシーツの上へ、こぼれるままにした。わずかな葉をつけた薊の茎が、グラスの外へ流れ出す。
私は少女の持ったグラスに急いで唇をつけ、薊の花茶で喉を潤した。少女は微笑み、私の顎から首筋を流れていく水を啜る。
流れる水を辿るようにして、私たちは唇を合わせていた。彼女がグラスを頭上で傾けたせいで、二人の髪は濡れそぼった猫のようになる。私は膝立ちになり、少女の濡れた額に唇を移動させる。少女は私の腰に腕を回し、胸を舌先で撫ぜる。
少女の小さな頭を両手で抱え込み、濡れたシーツにゆっくりと横たえた。彼女は薊の頭を一つとると、唇の間に挟んだ。一瞬、痛みに顔をしかめた後、彼女は目だけで微笑んだ。
愛玩動物を触るようにそっと、親指の腹で少女の浮き出た腰骨を撫でる。少女の目は、澄んだ水溜まりのようにだんだんと潤み、薊の毒が回り始めている。 
指を脚の付け根のあたりに移動させていくと、彼女の体の触れている部分が、次第にしっとりと湿ってくる。鱗のように細かな汗が肌に浮き出し、私の皮膚に吸い付く。
紅潮した彼女の頬に涙が一筋流れ、髪に隠れた耳元に落ちていった。私は両足をそっと開かせ、間にある未熟な果実に顔を近づける。溶けて透明になった蝋が表面を覆い、私の呼吸に合わせて雫が震える。
滲むように出てくる唾液を飲み込む音が聞こえる。私は残酷な気持ちになって、微笑んだ。まだ触れてもいない彼女の蕾は、しゃくりあげるように小さな痙攣を繰り返している。
戯れに舌なめずりをしてみせると、彼女はくわえていた薊を取り落とし、水から掬われた金魚のように小さく口を開けた。唇には赤黒い血がこびりついている。私が舌先を置くと、少女は小さく叫んで腰を上げた。
彼女の果実の前で私の舌は、揺れ惑う炎となった。彼女が声を上げる度に、私は腰を押さえる指に力を込めた。私の胴に絡みついた彼女の脚は、粘膜のような冷たい汗で覆われる。
少女は呼吸の仕方を忘れたかのように、激しく喘いでいる。あらゆる感情で膨れあがった彼女の体が歓喜に打ち震えるところを、私は瞬きも忘れて見た。
舌を這わせる私の意識の靄の中に、赤紫色の薊の毒が染み渡っていく。
 その色は、薄暮の西の空のように着実に濃度を上げてゆき、夕闇の藍を飲み込み、足元に黒々と口を開ける大きな穴へと私を追い詰めていくのだ。
少女の潮水で潤せば潤すほどに、喉の奥は干上がっていく。少女に口づけ、薊の茶を飲み下してもまだ足りない。あなたを何度でも私のものにするために。
眉間にしわを寄せ、きつく目を瞑っていた少女の瞼がふいに開かれる。私は、自分が落ちようとしているこの穴の正体に思い当たった。少女の底なしの万華鏡の目が、動きを止めた私をとらえる。

水溜まりが割れた鏡のようにあちこちに散らばり、まだ曖昧な色をした空を映している。
横浜スタジアムのナイター照明は、海面に突き出された鯨の尾ひれのように見える。島々の形をした雲が浮かぶ下で高く尾を振りかざし、派手な水しぶきを上げるのだ。
体じゅうで鳴り響いていた自分の心臓の音や、耳の奥でこだまする少女の声が、ゆっくりと後ずさりをするように、意識の外へと歩み去っていく。歩道橋の階段を昇るうち、静寂は私一人のものになった。
関帝廟の屋根では二匹の龍に守られた銀色の珠が陽光を跳ね返し、老婆の難破船は黄金色の明かりを消す。やがて中国人たちは、各々開店の準備を始める。
歩道橋の上から見下ろす中華街にはまだ朝靄が残り、少女のいる水中花樓が霞んで見えるようだった。

玄武門

2020.10.28

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